道路の分類
【どうろのぶんるい】
一等、二等、三等…国道のランクづけ?
道路の歴史はとてつもなく古い。しかし、明治政府は陸上交通の手段として鉄道を優先させたために、道路の整備は遅れ、鉄道や船舶の補助的な役割を担うにすぎなかった。「国道」という名称が生まれたのも、鉄道の開通より遅かったのである。
一八七六(明治九)年、太政官布告によって全国の道路が国道、県道、里道に定められたときに初めて、国道という用語が使われたのだ。国道、県道、里道はさらに一等、二等、三等の三等級にランクづけされた。
国道はすべて東京日本橋が起点で、江戸時代の五街道の伝統をそのまま受け継いだ形となっている。江戸が日本の中心になる前は、京都がすべての道路の起点であったように、いつの時代も政治の中心が、道路においても支配的な位置にあったということがいえよう。
国道の一等は国が最も重要視した幹線道で、東京と各開港場とを結ぶものであった。二等国道は東京と伊勢神宮および各府(東京、京都、大阪)、それに各鎮台とを結んでいた。鎮台とは陸軍の軍団のことで、東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六都市に置かれていた。三等国道は東京と各県庁所在地に通ずるもの、および各府、各鎮台を連絡するものである。このことからも、当時の明治政府がいかに軍事を重視、優先した道路政策をとっていたかがわかる。
太政官布告には、道路の幅員についての規定も定めていた。それによると、国道の一等は七間(約一二・七m)、二等は六間、三等は五間。県道は四~五間で、里道の定めはなかった。だが、明治一八年には国道を等級で分類することが廃止され、代わって一号から四四号までの路線が国道として認定された。一号は日本橋―横浜港、二号は日本橋―大阪港、三号は日本橋―神戸港というように、八号までが日本橋と開港場とを結ぶものであった。
だが、道路は鉄道に比べるとまだまだ立ち遅れていた。この頃から道路法制定の動きはあったものの、実現するにはいたらず月日が流れた。ようやく、一九一八(大正七)年の帝国議会で道路法が成立、翌年制定の運びとなった。
その道路法では、道路を国道、府県道、郡道、市道、町村道の五種に分類。国道には東京から伊勢神宮、府県庁所在地、師団指令部(旧鎮台)、開港場とを結ぶ路線などが指定された。国道に関しては、建設費および改修費は国が全額、その他の道路は地方公共団体が負担することになった。依然として道路においては軍事優先主義が貫かれていたのである。
昭和二七年には道路法が全面改正され、その後も幾多の変遷をたどりながら現在に至っている。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060061 |