東京の都市計画
【とうきょうのとしけいかく】
東京には一〇〇m道路が縦横に走るはずだった?
東京の道路網を見る限り、計画的に建設されたものとはいい難い。自然に任せて、思うがままに道路をつくったわけではあるまいが、街路は狭く、無秩序に道路が張り巡らされているとしかいいようがない。だが、この巨大都市東京にも、壮大な都市計画なるものが存在していたのである。しかも、一度ならず、二度三度と打ち立てられ、その都度チャンスを逸してきたといえる。
一六五七(明暦三)年に発生した明暦の大火で江戸は焼き尽くされ、一九二三(大正一二)年の関東大震災でも、東京は焦土と化した。そして第二次世界大戦の東京大空襲である。このほかにもたびたび大火に見舞われ、大きな被害を出した。その最大の原因は、道路の狭さであった。ひとたび火災が発生すると、たちまち燃え広がり、延焼を食い止めることができない。また、被災者が避難できる空間が各所にあれば、何万人もの犠牲者を出さずに済んだはずである。
関東大震災後、後藤新平による東京復興計画が打ち出された。しかし、それには莫大な予算が必要なことから反対意見も多く、ついにこの計画は押し潰され、計画のごく一部が実施されるにとどまった。
昭和二〇年の第二次世界大戦後にも、壮大なスケールの東京戦災復興都市計画なるものが打ち出された。もしこの計画が実現していたとしたら、東京には名古屋や札幌にあるような、道路幅が一〇〇mもある幹線道路が七本も建設されていたはずである。しかし、事業より先に人口が再び膨脹しはじめ、しかも財政難から、事業計画の見直しが余儀なくされた。そのため計画は大幅縮小。当初の壮大な都市計画はまたも泡と消え、無秩序、無計画な超巨大都市ができ上がってしまったのである。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060059 |