朝鮮通信使
【ちょうせんつうしんし】
日朝友交の旗手、朝鮮通信使の通った道
一六三三(寛永一〇)年に鎖国令が出されて以来、日本は外国との交流を閉ざした長い鎖国時代に入った。そんな状況下にあっても、日本と外交関係を結んでいた国があった。李氏朝鮮(朝鮮王朝)である。もっとも、中国やオランダ、琉球とも交流を持ってはいたが、正式な外交関係があったのは、唯一朝鮮だけであった。朝鮮との外交関係は足利義満の時代からあったが、秀吉の朝鮮出兵以来、両国の国交は断絶状態に陥っていた。
徳川家康は朝鮮との修好をはかり、再び両国の国交を回復させることに成功した。そこで一六〇七(慶長一二)年には、国書と贈物を携えた朝鮮からの使節団が日本に派遣されてきた。それが朝鮮通信使である。通信使の訪日は明治維新まで合計一二回を数えた。一回から三回までの派遣団は、対馬藩主宗氏による国書の偽造に対する回答と、文禄、慶長の役で日本に拉致された朝鮮人の刷還を求めることを名目とする派遣であったため、「回答兼刷還使」と呼ばれた。
朝鮮通信使のたどった経路は、釜山から船でまず対馬に渡った。対馬からは藩主宗氏の家来が同行し、関門海峡を通って瀬戸内海へ。海路を東にとって大坂に上陸。淀川を船で遡って京都入りした。京都からは東海道を歩き、草津から中山道の経路をとった。守山を過ぎ、野洲から琵琶湖岸を走る朝鮮人街道を通って、安土、彦根を経由して鳥居本で再び中山道に合流した。朝鮮人街道は、信長が安土に城を築いたときに、京都への道として整備したもので、朝鮮通信使が通ったことからこの名がある。垂井からは美濃路で宮(熱田)へ。そこから東海道で江戸に達した。
朝鮮通信使の総勢は四〇〇~五〇〇人、それに宗氏の家来が一〇〇〇~二〇〇〇人同行したというから、参勤交代の大名行列さながらの大行列だったのである。しかも、異国の使節団とあって風俗、衣裳も珍しく、沿道は見物人であふれたという。朝鮮通信使の一行は、日本の文化にも大きな影響を与えた。
日本と朝鮮の友好のシンボルでもあった朝鮮通信使ではあるが、何せ費用がかかる。通信使一行の接待や、通行などに要する経費は毎回一〇〇万両以上にも上ったというから、幕府の財政を大きく圧迫した。一二回目にあたる一八一一(文化八)年の通信使の派遣は、延期されながらやっと実現したものだったが、財政難を理由に、その場を江戸から対馬に移された。その後もたびたび通信使の派遣は計画されたが、政情不安定と財政難から、一度も実現することなく明治維新を迎えるに至ったのである。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060054 |