若狭街道
【わかさかいどう】
若狭街道をなぜ鯖街道という?
現代のように交通の発達していなかった時代、海から遠く離れた地域の人々にとって、魚介類は貴重な蛋白源だった。日本の旧首都京都には海がない。魚が京都の人の食膳に上ることは少なかったことだろう。
今でこそ太平洋側が表日本だと大きな顔をしているが、中世までは大陸と相対する日本海側が、日本の表側だったのである。若狭湾のほぼ中央に位置する小浜は良港に恵まれ、古くから中国や朝鮮と交流があった。小浜は大陸文化の上陸地、すなわち京都への玄関口だったのである。京都への最短距離でもあったことから、京都との結びつきも強かった。小浜が「海のある奈良」と称され、国宝級の寺社が多いのもうなずけよう。
日本海に揚がった魚介類は、小浜から京都に運ばれた。この交通路が若狭街道である。京都へは二通りのルートがあった。ひとつは小浜から琵琶湖北西岸の今津へ抜けるもの。小浜から今津まで約三八kmあったことから九里半越えともいわれた。今津からは湖上を大津まで行き、そこから京都へ入った。もうひとつのルートは、琵琶湖の手前で南に折れ、花折峠、大原を経て京都に至る道で、この道が京都への最短距離だった。だが、京都まではどう急いでも丸一日かかる。保冷技術のなかった当時、魚介類を生のままで京都まで運ぶことは困難であった。特に鯖の鮮度は落ちやすい。そこで、魚を塩でしめてから陸送するという方法がとられた。行商人に担がれた鯖は、遠い道のりを京都まで運ばれた。
ところが、輸送に丸一日要したところに大きな意味があったのである。京都に着いた頃には塩加減もほどよく、特に塩鯖は京都の人々には大変な人気を呼んだ。こんなところから、若狭街道のことを鯖街道と呼ぶようになったのであろう。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060056 |