宿場町
【しゅくばまち】
日本一大きい宿場町が宮にあったわけ
東海道にはいくつもの難所があった。よく知られていたのが箱根八里と大井川の川越え、それに関所での取締りだ。だが、七里の渡しも大変な難所だったのである。宮(熱田)から桑名までの七里(約二八km)を船で渡るのに六時間あまりも要した。船酔いする人には、この七里の渡しはまさに地獄、東海道最大の難所だったに違いない。海が荒れることもあっただろう。船に弱い人には、確かに船に揺られての六時間強は辛く、快適な船旅とは程遠いといえた。三代将軍家光も、七里の渡しが大の苦手だったという。
そのためのバイパスが佐屋路であった。佐屋路は尾張初代藩主の徳川義直が開いたといわれる。宮から桑名まで、佐屋路だと九里、七里の渡しより二里ほど長くなる。しかも途中、佐屋川や木曽川を渡る三里の渡しもあった。それでも海路を行く七里の渡しよりは、まだましだったのだろう。
東海道五三次には、旅篭が全部で三〇〇〇軒近くあった。一つの宿場に平均五五軒あまりの旅篭があったことになるが、実際の数は宿場によって著しい差があった。人口の多い江戸の周辺や京都に近い宿場には、旅篭の数も多かった。商人や、近くの寺社巡りなどに出かける旅人たちにも利用されたとみられる。難所を控えた宿場にも旅篭は多かった。難所越えに備えての宿泊だったのである。たとえば、箱根八里の東の麓の小田原には九五軒もの旅篭があった。その手前の大磯(六六軒)、平塚(五四軒)、藤沢(四五軒)などと比べるとかなりの多さだ。箱根八里の西の麓の三島にも、七四軒もの旅篭があった。
だが、これよりもはるかに多い旅篭のあった宿場がある。それはどこか。七里の渡しの港があった宮(熱田)で、二四八軒と群を抜く多さだったのである。もう一方の桑名にも、一二〇軒の旅篭があった。旅篭が一〇〇軒を越えたのは宮と桑名と、家康のお膝元の岡崎(一一二軒)だけだ。いかに七里の渡しが大きな難所だったかを物語っているともいえそうだが、宮は熱田神宮の門前町。熱田神宮への参詣が目的の旅人も少なくなかったようだ。また、名古屋城下への入口にもあたり、佐屋路との分岐点でもあった。飯盛女の数も東海道一の多さだったという。
昼過ぎに宮に到着した旅人も、七里の渡しでは、その日のうちに桑名にたどり着くことは難しく、宮に泊った旅人も多かったと思われる。ある意味では、七里の渡しが東海道最大の難所だったといえるのかもしれない。
旅篭の数からみれば、宮が東海道一、いや日本一の大宿場町だったのである。現在、宮の港跡には常夜灯が立ち、往時の面影をしのばせている。旅篭の多い宿場としてこのほか、品川(九三)、川崎(七二)、戸塚(七五)、浜松(九四)、四日市(九八)、草津(七二)、大津(七一)などがあった。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060052 |