五街道
【ごかいどう】
誰が定めた?江戸時代の五街道
戦国時代は、道路にとっても苦難の時代といえた。道路は荒れ果て、治安も乱れ、庶民が安心して通れる状態ではなかったという。織田信長は諸国を統一し、道路の大改修を行った。その後を継いだ豊臣秀吉も、道路整備に大きな功績を残している。しかし、本格的に道路が整備され始めたのは江戸時代に入ってからである。
関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、まず道路の大改革に乗り出した。政治支配を強め、より強固で安定した幕府を築くためには、何よりも先に道路の整備が必要だと考えたのだろう。一六〇一(慶長六)年、家康は朱印状によって各宿場に伝馬(駅馬とは別に公用に使わせた馬)の常備を義務づけ、道幅を広げ、宿場を整備し、一里塚を設けるなど、街道の整備を着々と進めた。砂利や砂を敷いて路面を平らに固めたり、松並木を植えたりもした。
だが、江戸時代の五街道は家康が定めたものではなく、三代将軍の家光でもなかった。四代将軍家綱の時代に定められたのである。江戸日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五本の幹線道を五街道といい、街道の要所要所に関所を置いて、通行人を取り締った。江戸の防衛、ひいては幕府安泰のためである。
東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの五三次、約四九〇km、大坂までの四宿も加えて五七次ともいった。中山道は高崎、下諏訪、木曽路を経て、草津までの六七次、それに草津、大津の二宿を加えて六九次といった。日光街道は千住、宇都宮、今市を経て日光までの二一次。奥州街道は陸奥白河までの二七次で、宇都宮までの一七宿は日光街道と重複していた。甲州街道は内藤新宿、八王子、甲府を通り、下諏訪で中山道に合流するまでの四三次だ。
東海道は天下の大動脈として、幕府が最も重要視した幹線道で、とりわけ取締りも厳しかった。「入鉄砲出女」には特に目を光らせた。入鉄砲、すなわち江戸に武器が入ってくることの取締りだ。出女は諸大名の妻子たちの、江戸からの脱出を監視することである。
そもそも徳川幕府が参勤交代の制度をとったのも、諸国の統制と国家の安泰が最大の目的であった。参勤交代とは諸国の大名を一年江戸に参勤させ、次の一年を在国させるというもので、大名の妻子たちは人質として江戸に常住させられた。徳川幕府が三〇〇年近くも続いたのは、参勤交代の制度があったからだといわれている。
参勤交代は宿場をはじめ、街道筋を発展させるという大きな経済効果をもたらした。五街道およびそれに付属する脇街道は、参勤交代など公用目的に整備されたものだが、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになり、街道筋はますます栄えた。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060050 |