小樽運河
【おたるうんが】
■18 埋め立てられる運命を回避した小樽運河…市民の反対運動で観光資源として再生
JR北海道の小樽駅は高台にあり、遠くに海が見渡せ、海へは真っすぐに一筋の路が下っている。階段状の町並みが連なるなか、駅から10分ほど歩くと運河に出る。南北に約1キロほど続くその運河は、小樽の町のシンボルであり、随一の観光スポットでもある。運河は、心地よい程度のゆるやかさで湾曲している。対岸には、古びたレトロ調の倉庫群が立ち並んでいる。
1966年、小樽市はこの運河を埋め立てて、6車線の大道路を建設すると発表した。当時、すでに運河はその役目を終え、使われなくなっていた。倉庫群は老朽化が進み、一冬に数棟が雪の重みで倒壊した。水面には朽ちかけた艀が野ざらしになり、水質も家庭排水が流れ込んでヘドロ化し、夏になると悪臭を放った。こんな状態だったから、市当局が運河を埋め立てて道路を造ったほうが有用だと考えたのも無理はない。
だが、衰微したとはいえ、運河はこの町に生まれた人々の心の風景であったので、反対運動が起こった。
運動は盛り上がり、マスコミが大きく取り上げたため、小樽運河は全国的に有名になった。
16年にも及ぶ論争の結果、40メートル幅の運河を半分に削り、埋め立てた敷地に車道のほか、散策路や公園をつくり、観光地として整備することになった。
その後、周辺は逐次整備が進み、御影石をイチョウ型に60万個も敷き詰めた、しゃれた遊歩道ができた。アンティーク調のガス灯も立った。古びた倉庫群はそのままレストランや喫茶店にリサイクルされ、見事に観光地へと変貌したのだ。
小樽に運河ができたのは、1923年のこと。小樽港と倉庫を往来する水路の必要性から、沖を埋め立てて造られたのである。
小樽の港は、江戸時代から鰊の水揚げで栄えていたが、1880年に小樽(手宮)―札幌間に鉄道が開通したことで、石炭の積出し港としても急速な発展を遂げた。
町には日本銀行小樽支店をはじめとする都市銀行が林立し、金融都市としても繁栄、「北のウオール街」と呼ばれた。また、小豆など道内で収穫される雑穀が港から海外へ輸出され、小樽の雑穀相場がロンドン相場に影響するほどだったと伝えられる。
かつての繁栄を示す運河の倉庫群は、大半が石造りになっている。レンガ仕立てやモルタル塗りもまれに見られるが、土蔵でないのが特徴だ。この建築方式は俗に「木骨石造」と言われ、木造の骨組みに鎹を使って厚さ15センチほどの凝灰岩をつなぎとめただけの構造になっている。
倉庫は一つ一つ趣があり、見ていて飽きない。とくに瓦屋根に鯱をいただく旧小樽倉庫(現在の小樽市博物館)や、入り口に2重のアーチを持つ越屋根の旧大家倉庫は独特の味を出している。
「冬が近くなると、僕はその懐かしい国のことを考えて深い感動を覚える。そこには運河と倉庫と桟橋がある。(中略)赤い断層を処々に見せて階段のように山にせり上がっている街を、僕はどんなに愛したか分からない」
これは、町を一望できる場所に立つプロレタリア作家・小林多喜二文学碑の碑文である。小樽に育った多喜二は、艀が行き交う運河が大好きで、よく友達とふざけてチャップリンの真似をしながら、この界隈を歩いていたという。
残念ながら、多喜二は獄中で拷問に遭い、30歳の若さで死んでしまう。もし彼が長生きしていたなら、きっと復活した小樽を見て、とても喜んだだろう。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625134 |