治安維持
【ちあんいじ】
■4 治安維持に貢献する辻番所・自身番の役割…町人エリアの防犯・防火はすべて自費
江戸の町の治安が良かったなんていうのはウソだ。とくに戦国気分が抜けない江戸時代の初期は、恐ろしく治安が悪かった。藩が改易されて江戸の町には牢人が溢れ、おしゃれや喧嘩に精を出す「かぶき者」が闊歩するようになっていく。また、戦争がなくなったことで無骨者たちは欲求不満に陥っていた。
そんなことから、3代将軍・徳川家光の頃、1620年代から1640年代にかけて、江戸の町には辻斬りが横行した。いわゆる通り魔殺人である。犯人は、先に述べた牢人やかぶき者、無骨者といった、欲求が満たされない武士たちだった。
彼らは夜な夜な江戸の町を徘徊し、チャンスと見れば、老若男女構わず、人間を斬り殺した。新刀の切れ味を試すため、100人斬りの記録を達成するためなど、恐ろしく短絡的な犯行であり、現代の中学生によるホームレス殺人事件や精神異常者を装った連続殺人を彷彿とさせる。
いずれにせよ、そうした状態だったから、「夜の使いを頼んでも誰も引き受けなくなってしまった」と豊前中津藩主・細川忠興が手紙で嘆くほどになってしまった。
そこで幕府は、1628年、辻番所を設けるよう、各藩に通達を出した。武家屋敷などに張り出しを造り、そこに常時人間を置いておき、辻斬りを警戒するのである。規定によれば、昼2名、夜4名を定員とし、番人には不審な者を連行する権限、抵抗する者を討ち殺す権限も付与された。
辻番所は大きく3つに大別される。幕府直営の公儀辻番、諸藩の大名辻番、大名や旗本などが複数で設置する組合辻番である。これらは主に武家地を警備していた。
やがて約900か所にも増えた辻番所は、不審者の取り締まりに加え、酔っ払いの世話、死人の届け出、ゴミの不法投棄や大八車などの不法駐車の取り締まりまで、まさに現代の交番の役割を担うようになっていったのである。
一方、町人居住地については、公儀が設置した辻番所とは別に、江戸の町人たちが自ら自警組織を創設して、犯罪防止に当たった。そして、辻番所のように簡素な小屋を造り、3~5名が昼夜そこに詰める体制を敷いた。この小屋を「自身番」と呼ぶ。いわゆる、よく時代劇に登場する「番所」とは、これのことである。
自身番の番人たちにも、夜回りをして、不審な者を尋問する権利が公儀から付与されていた。
「怪しいヤツだ。ちょっと番所まで一緒に来てもらおう」
と番小屋にしょっ引かれるシーンは、テレビの時代劇でお馴染みだろう。
やがて番小屋は、専門の番人が居住できるほどの広さとなり、2階建てや火の見櫓を構える家屋も増えていった。さらに番所内には、火事に備えて消防用具などが置かれた。
基本的に自身番の費用は、すべて町人持ちであるゆえ、幕府としては警察費が浮き、かなり助かったはずである。
幕末には、江戸の町に存在する番所は1000近くもあったというから、ちょっと歩けば番所に突き当たったわけで、さすがにこれなら治安も良くなるわけだ。
近年、外国人の凶悪犯罪や青少年の「オヤジ狩り」などが急増し、おちおち安心して夜道も歩けなくなった。それに加え、不祥事続きで警察に対する不信感はつのる一方である。そのため、お上にばかり頼らず、自分たちの町の治安は自分たちで守ろうという動きが、都市部を中心に広がっている。まるで自身番のような組織である。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625120 |