天野八郎
【あまのはちろう】
■8 彰義隊を率いた天野八郎の香車に恥じぬ生き方…残された獄中記に見る反骨の精神
1868年4月、官軍によって江戸城は無血で接収された。このあっけない幕切れに憤慨した男たちがいた。彰義隊の面々である。
彰義隊は、上野の寛永寺で謹慎する徳川幕府15代将軍・徳川慶喜の警護を名目に発足した。「彰義」とは、将軍家への義を彰かにするという意味である。
その彰義隊の副頭取を天野八郎といい、頭取の一橋家重臣・渋沢成一郎が意見の食い違いから隊を脱退したあとは、頭並として実質的な総帥になった。
八郎は幕臣ではない。1831年、上野国甘楽郡磐戸村(群馬県甘楽郡南牧村)の庄屋・大井田吉五郎の次男として生まれたが、幼少より文武を好み、武士になることを志して江戸に出てくる。そして、火消与力の養子となり、その後、武士として取り立てられ、旗本天野氏を名乗るようになった。
ちなみに天野の姓は、出身地の磐戸村にちなんで、「天の岩戸」をもじってつけたとも言われている。
そんな新参者の軽輩が総帥にまで推されるのだから、よほどの逸材だったのだろう。
江戸開城後、慶喜が水戸へ退隠したあとも、江戸市中警護を名目に、彰義隊の威勢は衰えなかった。隊員は3千を超えるほどに肥大化し、官軍にとっては脅威的な存在に成長していた。
そのため、軍防事務局判事の長州藩(山口県)出身・大村益次郎率いる官軍は、同年5月15日未明、上野の山に陣取る彰義隊への総攻撃を開始した。
接近戦では激しい抵抗を見せた彰義隊であったが、官軍の砲兵隊が本郷台(いまの東京大学近辺)に設置したアームストロング砲の砲弾が不忍池を飛び越えて上野の山を攻撃したことには成すすべもなく、同日夕刻、彰義隊は壊滅へと追い込まれた。
後世に「上野戦争」と呼ばれるこの戦いは、わずか1日足らずで終結したのである。
このとき八郎は、音羽の護国寺に逃れ、夜陰に乗じて知人の家に転がり込んだ。その後は本所石川町の炭屋文次郎の屋敷に潜み、同志と連絡を取りつつ再挙を図った。
だが、7月13日早朝、ついに官兵に踏み込まれる。八郎はすばやく2階から屋根へ踊り出たが、不運にも1発の銃弾が眉間をかすめ、均衡を失って転落、捕縛されてしまった。
その後、八郎は日比谷の内糺問所の獄舎に入牢、4か月後に獄中で死んだ。
表向きの死因は病死だったが、本当は過酷な拷問のうちに衰弱死したとも、官軍によって毒殺されたとも言われている。
『斃休録』は、八郎が獄中で綴った文章である。斃には「前のめりで死ぬ」という意味がある。短編ではあるが、彰義隊成立の経緯や上野戦争の様子に加え、八郎の信念が詳細に刻印されている。
その文中で八郎は、
「暴徒(薩長2藩)、幼帝(明治天皇)を擁し、我主(将軍慶喜)を朝敵と唱え」
と官軍を非難し、幕臣についても、
「賊吏旗本8万の薄情柔弱を憎み」
と、その不甲斐なさを嘆じ、
「(官軍の)勢いに圧せられて是非を論ぜず、その後に従って己が主家(徳川将軍家)に砲玉を向ける」
と諸藩の寝返りを痛罵している。
そして、東北諸藩が官軍に抵抗しているのを
「これ愉快の美事」
と言い切った。
この『斃休録』は、八郎の実兄・大井田大助の手に渡り、同家に大切に保存されている。
しかし、いま見たとおり、余りにも過激な内容ゆえに、獄中からの送付を官軍が公式に許可したとはとても考えがたい。おそらく、牢役人の黙認という好意によって、密かに実兄の手元に届けられたと推測される。
牢役人が八郎の人柄に心酔したのか、それとも金子を握らされたのかは定かでないが、いずれにしても、敗者側の記録が伝存したことは、日本史にとって幸運であったと言えるだろう。
この『斃休録』の末尾には、八郎の辞世の句が載っている。
「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」
稲妻は官軍に敢然と抵抗する東北諸藩を指し、月は徳川幕府を暗示しているようだ。獄中から、東北諸藩に期待を寄せる八郎の気持ちが切々と伝わってくる。
だが、八郎の辞世にもっとふさわしい言葉が、この『斃休録』にある。
「今日に至る 決して香車に恥じず」
である。
意味はこうだ。
「私は、将棋の香車を好んで槍印に用いてきた。一歩も横へ逃げず、後ろに退かぬその性質を好むからだ。自分もまた、上野で敗北したあと逃亡せず、江戸に留まって再挙を企図した。いま、はからずも囚われの身となったが、私は決して香車に恥じることはないと自負している」
不器用なまでに真っすぐ突き進んだ八郎の、強烈な信念の表れである。
その後、八郎は、
「わが赤心(偽りのない心)転ばすべからず。首を失うの日、累代の君前に訴うるを楽しむのみ」
との自信を持って、言葉を閉めている。
『斃休録』を書き上げてから3か月後、八郎は逝った。享年は38歳であったと伝えられる。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625097 |