対馬
【つしま】
■12 幕末、ロシアの植民地にされかけた対馬…列強国のパワーに振り回された日本
アジア諸国が次々と欧米列強諸国の植民地に転落していくなか、日本は巧みな外交と富国強兵政策によって、その危機を乗り越えたと言われているが、事はそう単純ではない。
実は、一時ロシアに領有されてしまった場所がある。長崎県の対馬がそうだ。
1861年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の浅茅湾に来航し、船を修理したいと対馬藩に申し出た。そしてロシア兵は芋崎浦を占拠すると続々と上陸、にわかに屋敷を造り、井戸を掘り始めたのである。
驚いた対馬藩は撤退を求めるが、同船艦長のビリレフは承諾せず、ついに対馬の人々とロシア兵が小競り合いを起こし、島民が死ぬという事件が起こる。
幕府もこれを放っておけず、外国奉行・小栗忠順を送り込むが、交渉に失敗し、逆にビリレフ艦長は対馬藩主に、芋崎周辺の租借など12か条の要求を突きつけて、対馬のロシア領化を進めたのである。
もしこのまま強硬にロシア兵が滞留を続けていたならば、おそらく対馬はロシアに奪われていただろう。
だが、駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックが対馬に軍艦を差し向け、不法滞在に強く抗議し、威圧したため、同年8月、ロシア政府も撤兵を決めた。
芋崎浦には、いまもロシア軍が建設した波止場や井戸の痕跡が残っている。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625025 |