和時計
【わどけい】
不定時法に対応させた和時計
◆現存する日本最古の機械時計は家康所有の置時計
日本に初めて機械時計をもたらしたのは、イエズス会の宣教師ザビエルである。室町時代末の一五五一年、周防国山口の領主・大内義隆に、キリスト教の布教許可を得るために、楽器やガラス製品などとともに機械時計を贈ったことが記録に残っている。この機械時計は定時に鐘をたたいて時を知らせるので自鳴鐘と呼ばれた。
現存する日本最古の自鳴鐘は静岡県の久能山東照宮に保存されているヨーロッパ製の置時計である。慶長一四年(一六〇九年)九月、フィリピン提督ドン・ロドリゴがメキシコに向かう途中、房総沖で難破して現・千葉県御宿町岩和田の海岸に漂着した。このとき徳川家康はドン・ロドリゴに新造したばかりの船を提供して無事帰還させ、それに感謝したスペイン国王がこの置時計を家康に贈ったと伝えられる(一六一二年)。
◆二挺テンプ式は昼夜の変わり目で自動切りかえ
ヨーロッパから機械時計が渡来してから、ほどなく日本でも和時計と総称される機械時計が製作されるようになった。しかし、定時法のヨーロッパの機械時計をそのまままねるわけにはいかない。日本では生活上の時刻制度として不定時法が定着していたからだ(天文時には定時法が使われていた)。不定時法では一時の長さは昼夜で異なるし、季節推移とともに毎日少しずつ変化する。そこで、日本の職人たちは不定時法に対応したさまざまな工夫を凝らした。たとえば一定のリズムで時を刻ませる機構として、てんびんのような棒テンプが用いられ、当初は両端の重りの位置を変えることでリズムを調節していたが、やがて昼用・夜用の二つのてんびんを用いた二挺テンプが考案された。これは明六つ・暮六つの昼夜の変わり目に、自動的にテンプを切りかえるというものである。円テンプ式の時計に採用された割駒式文字板(不定時法にあわせて文字板の目盛りを変更する方式)も和時計独特のものであった。しかし、一八七三年(明治六年)に定時法が採用されるや、安価な西洋式機械時計(「ボンボン時計」と呼ばれた)が大量に輸入され、和時計はたちまち骨董品になってしまった。
| 日本実業出版社 (著:吉岡 安之) 「暦の雑学事典」 JLogosID : 5040079 |