日本橋②
【東京雑学研究会編】
§橋銘板を揮毫したのは徳川慶喜
一九一一(明治四四)年に架けかえられ、アーチ型の石橋となった日本橋は、長さ四九メートル、幅二七メートルでルネサンス様式を模している。そして欄干には、金属の橋銘板に素晴らしい筆跡で「日本橋」と揮毫が成された。
これを書いたのは、徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜だという。当時の東京市長、尾崎行雄から揮毫を依頼され、快諾したのだ。歴史上の役割を終え、隠遁生活にあった慶喜だが、彼自身が江戸、そして日本橋への思い入れが深かったことをよく示す逸話である。江戸の象徴であった日本橋にふさわしい書き手だったといえよう。
以後も趣深い姿を残してきた日本橋であったが、東京オリンピックを控えた一九六三(昭和三八)年、日本橋上空に首都高速道路が開通。一九六七(昭和四二)年には都電が廃止され、歩道が御影石に舗装されるなど、周囲の風景は一変。情緒など微塵も感じさせない風景となってしまった。
これに対し現在、江戸の中心であった日本橋の原風景を取り戻そうと、上空を通る首都高速道路を地下に埋め込もうという運動が進行中である。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全」 JLogosID : 12670731 |