端午の節句
【東京雑学研究会編】
§端午の節句は、女性のお祭りだった?
五月五日の端午の節句は、男の子のお祭りである。だが、元来この日は女性のお祭りだった。では、どうして、そしていつ頃から、男の子のお祭りとなったのであろうか?
旧暦の五月は今の六月にあたり、田植えを前にした梅雨入りという、農業には重要な時期である。そのため女性たちは、仮小屋や神社にこもって、水が豊富に田に降り注ぐように祈願した。女性が農業の神を祀るのは、弥生時代の稲作の始まりまでさかのぼる古い信仰である。邪馬台国の卑弥呼も、こういった役割を担っていた。
農村には、五月四日の夜から五日にかけて、女が家にこもって物忌みをする習慣が近年まで残り、「女の家」と呼ばれていた。その際、家の軒には魔除けとして、強い香りのあるヨモギとショウブをさした。
これが、宮廷において、中国から伝来した五月五日に行う端午の節句と一緒になったのである。ヨモギやショウブを飾り、ちまきを食べては健康を祈願した。
武士が政権を執るようになった鎌倉時代以降、宮廷での端午の節句は規模が縮小されたが、それに代わって武家での祝いがさかんになった。
五月五日には、家臣を集めて馬術や弓術の競技を行い、宴会をした。飾りつけには、やはりヨモギとショウブを用いたが、ことにショウブは葉の形が剣に似ており、またショウブは勝負や尚武と音が通じるため、めでたいものとされた。
やがて飾りが増えてゆき、紙で作った鎧・兜を軒端に掲げたり、人形を披露したりするようになった。これが、豪華な武者人形へと変化していったのである。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全」 JLogosID : 12670593 |