松尾芭蕉
【まつおばしょう】
芭蕉が奥の細道で訪れた最北の地は?
道は人が歩くためにある。歩くことが人生であるといわんばかりに、人生の多くを旅に費した人物がいる。松尾芭蕉もその一人。芭蕉の旅は紀行文として綴られ、多くの文学作品を生んだ。なかでも「奥の細道」は、日本の紀行文学史上最高の傑作といわれるもので、今も多くの人々から読まれている。
奥の細道は、芭蕉が江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った大旅行記である。芭蕉が崇拝する西行の五〇〇回忌にあたる、一六八九(元禄二)年の桜の花咲く頃、門人の河合曽良(そら)を伴っての旅であった。江戸深川の隅田川畔にあった芭蕉の草庵から、船に乗ってまず千住へ。そこから草加、日光と道をとり、下野の城下町黒羽へ。ここでは大いに歓待されたこともあって、十数日間という、奥の細道の旅行では最も長く滞在した記念すべき地となった。ここからさらに北へ向かい、白河関を越えて奥州へ入る。
須賀川、飯坂、仙台と歩き、日本三景の一つ、松島では「松島や、ああ松島や松島や」と、その多島美風景に絶句。平泉では藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。毛越寺(もうつうじ)にはこの句碑がある。平泉は、奥の細道の折り返し点にもあたる地で、ここから山を越えて出羽の国へ入った。
山寺(立石寺)(りっつしゃくじ)では、「閑さや岩にしみ入蝉の聲」の句を残した。日本三大急流の一つとして有名な最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山へも登り、奥の細道の旅行で最北の地となった象潟(きさかた)に到着したときは、もう六月も半ばである。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝の地で、その多島美風景を評して、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と詠んだ。ここから日本海岸を南下し、新潟、富山、金沢、福井と北陸道を歩き、美濃の大垣で大旅行を終えたのである。
旅行日数は約一五〇日、全行程約二四〇〇kmにもおよび、当時としては空前の大旅行であった。また、道路事情なども考えると、冒険旅行ともいえた。危険な目にも遭っただろうが、各地で細やかな人情にも触れ、歓待されたりもし、それぞれの地で名句を残した。芭蕉はひたすら道を歩き、自分の人生を旅に賭けてきたのである。奥の細道で芭蕉がたどった足跡を追って、人間性を回復しようと、奥の細道自然遊歩道が整備されているところもある。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060073 |