森有礼
【もりありのり】
■10 憲法発布当日に起きた初代文部大臣暗殺事件…日本で初めての契約結婚をした男の意外な最期
初代の文部大臣となる森有礼は、1847年生まれの薩摩藩出身で、子供時代から神童と呼ばれていた。
14歳のとき、仙台藩の学者・林子平が書いた、四方が海に囲まれた日本の国防体制の整備を説く『海国兵談』を読んで、海外留学への志を持つようになったと言われる。
1865年には、その希望を叶え、藩費留学生としてイギリスへ渡り、ロンドン大学で学んだ。やがてアメリカに移り、トーマス・レイク・ハリスという神秘的宗教家のコロニーへ入って社会主義的キリスト教に感化され、1868年に帰国する。
樹立したばかりの明治政府は、欧米の新知識を身につけたこの若者を、外国官権判事に取り立てた。翌1869年には、刀を差して歩くのは文明国ではないと考え、廃刀令を政府に建白した。だが、士族から激しい反発を受け、ついに引責辞任することになってしまう。実際に廃刀令が発せられたのは1876年になってからであった。
その後、郷里の薩摩へ帰って英学塾を開き、生計を立てていたが、その才を惜しんだ政府は、まもなく彼を再雇用している。
森は官吏のかたわら、福沢諭吉らと共に1874年、学術結社の明六社を創設、機関誌『明六雑誌』を発行して、国民の啓蒙活動に努めた。
森の考え方でとくに画期的だったのは、男女同権を唱えたことである。そのうえ、男尊女卑、男が妾を持つのが当たり前だった時代に、何と契約結婚を断行したのだ。1875年2月6日のこと、相手は静岡県の士族の娘・広瀬阿常で21歳、対する森は29歳だった。媒酌人は東京府知事の大久保一翁、証人を福沢諭吉が務めた。
互いに契約書を交しての結婚だったが、その第3条には「(森)有礼(広瀬)阿常夫妻の共有すべき品に就いては、双方同意の上ならでは他人と貸借あるいは売買の約を為さざる事」などと記されており、当時としては画期的な条項であった。
そんな森の人生は、意外なところで結末を迎える。
1889年2月11日――この日、大日本帝国憲法が発布された。アジアで近代憲法が制定されたのは日本が初めてで、まさに国じゅうがお祭り騒ぎとなった。森も初代文部大臣として天皇臨席の発布式典に出席しようと、準備を急いでいた。
ちょうどそんなとき、東京・永田町の文部大臣官邸に小柄な若者が現れ、至急の要件だと言って文部大臣に面会を請うた。
門番の巡査がこれを拒絶したところ、若者が驚くべき情報を口にした。本日、文部大臣参内の途上、大臣を襲撃する計画を耳にしたというのだ。
驚いた巡査が連絡、大臣秘書官付の座田秀重がこの若者を応接室に招き、くわしく話を聞くことになった。若者は名を西野文太郎といい、山口県出身の25歳、内務省土木局の職員であった。
座田は西野の話を大臣に告げた。一方、西野はどうしても大臣に会いたいと粘ったが、参内準備で忙しいからと断られ、しぶしぶ官邸をあとにしようと座を立った。
そのときである。何とバッタリ、正装して出かけようとしていた森に出くわしたのだ。一説によれば、せっかく大事を知らせてくれた若者に、ちょっと面会してもいいだろうと思ったのだとも伝えられる。が、それが命取りになった。
西野は、森に向かい「貴下は大臣ですか」と尋ね、「そうだ」という返事を聞いた瞬間、いきなり飛びついて、隠し持っていた出刃包丁で森の腹を深く刺したのである。
驚いた座田は、仕込み杖を引き抜いて、背中から西野を切り下ろし、さらに首を薙いだ。そして数太刀浴びせかけて、これを絶命させた。
森の傷はへそから右へ7センチのところにあり、深手であり、内臓が10センチ以上も飛び出してしまっていたという。もやは手の施しようもなく、悶絶しながら翌朝、息途絶えた。
ところで、いったい西野の動機は、何であったのだろうか?
新聞の報道によれば、不敬な文部大臣を天皇と臨席させてはならないと考えたためだという。
事件の前年、森は学事調査のため、三重県を訪問し、伊勢神宮に参拝した。このとき森は、
「(禰宜が)社殿に案内したるが、大臣は何思いけんズカズカと進み入り、右手に携えしステッキを以って、御門扉の御張を高く掲げたる」(東京日日新聞)
という行動をとった。英語を国語として義務教育で教えるよう提唱するなど、日頃から「西洋かぶれ」な言動が目立っていた森にとっては、それほど深い意図がある行為ではなかったのだろう。
しかし、これを知って西野は激怒し、森に殺意を抱くようになったと伝えられる。西野は強烈な皇室尊崇者であり、それゆえ、この森の行為に我慢ならなかったらしい。
西野は、小柄で目つきが鋭く、孤独で寡黙な性格の青年だったというが、いったん口を開くとその声は周囲を圧倒するほどで、話が皇室のことに及ぶと、感極まって落涙するのが常だったという。
なぜ森が、伊勢神宮でこうした行為をしたのかはわからないが、まさかそれによって自分の命が奪われるとは、夢にも思っていなかっただろう。
ただ当時は、西野の行為を尊皇だとして感激する人々も少なくなく、新聞報道によれば、山口県(長州藩)出身の政府の官吏らが西野のために香典を集めて実父に送ったとあり、また、西野の墓に詣でる者が列をなしたともいう。京都の西大谷には、何者かが西野の顕彰碑を建てている。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625051 |