北条時政
【ほうじょうときまさ】
■3 後妻に乗せられ将軍暗殺を図った北条時政…息子や娘に追われ引退するはめに
1182年、源頼朝に愛人の亀前がいると、北条政子に讒訴(告げ口)したのは、政子の義理の母・牧の方であった。
その牧の方が、3代将軍・源実朝の暗殺に大きくかかわっていたという話がある。
彼女の夫は、北条時政である。時政は実朝の外祖父に当たり、鎌倉幕府の初代執権として政権の中枢にいた実力者。その時政が1205年に自分の孫を殺そうとしたさいの首謀者が牧の方らしいのだ。
牧の方の出自は謎に包まれており、出生地や生年だけでなく、いつ時政の後妻になったかも、実はよくわかっていない。後妻という言葉のイメージから、非常に若くて美貌の女性を想像するかもしれないが、時政とのあいだに1男4女をもうけていることなどから、このときはもう中年の女性であったと考えたほうが妥当だろう。ただ、68歳とかなり老齢であった時政は、この後妻にぞっこんであったようだ。
亀前の一件で政子を嫉妬に狂わせ、激しい怒りを抱かせるほど、牧の方の讒言手腕(密告の腕)は、たいしたものであった。
1205年の事件でも、この能力がいかんなく発揮されている。
牧の方の長女は、京都守護・平賀朝雅に嫁いでいた。平賀氏は源氏の一門で、牧の方は、この娘婿を非常にかわいがっていた。
あるとき、その朝雅が、武蔵国の有力御家人・畠山氏に謀反の疑いがある、と牧の方に訴えてきた。
本当は、酒席で畠山重保と口論になったのに腹を立てての出訴だったようだが、牧の方はそれを得意の弁舌で、さも事実のようにして、夫・時政へ告げたのだ。
時政は牧の方の言葉を信じ、先妻の子である義時や政子が強く反対したにもかかわらず、畠山重保とその父・重忠を騙して誘殺してしまったのである。
「夫は、自分の言うことなら何でも聞いてくれるに違いない」
そう思い上がった彼女は、今度は将軍・実朝を殺害して、代わりに平賀朝雅を将軍に立て、実家である牧氏の手に政権を握らせようと企んだのだ。
時政は、彼女の策略にまんまと同意した。保元の乱から後醍醐天皇の死去(暦応年間)までの歴史を記した『保暦間記』は、計画に乗った時政を「老耄のいたりか」と嘆いている。
だが、まさに計画が実行される直前、時政の屋敷にあった実朝の身柄は、にわかに義時のもとへと移された。実朝に仕える侍女・阿波局が、
「牧の方の動きが不穏で、ひょっとしたら実朝を殺そうとしているのではないか」
と、北条政子に密かに告げてきたためである。まさに、危機一髪だった。
暗殺に失敗した時政は、もはやこれまでと思ったのか、潔く剃髪すると、伊豆国北条(静岡県田方郡韮山町)に隠棲してしまった。牧の方もこれに従った。他方、京都にいた平賀朝雅は、幕府の遣わした刺客によって殺される。
事件から10年後、時政は78歳でその生涯をひっそりと閉じた。1227年、牧の方は時政の13回忌を京都で執行したというから、そのときはまだ健在だったようだ。
だが、それから彼女がどういう人生を送り、どうなったかは、皆目見当がつかない。ただ、もはや彼女の讒言を信じる者はだれ一人としていなかったことだけは確かである。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625044 |