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時計
【とけい】

暦の雑学事典4章 時刻・時計 >

◆環状列石(ストーンサークル)は日時計だった?
 時計という言葉は改めて考えてみると不可解ところがある。時という漢字は、音で「ジ」、訓で「トキ」であり、「ト」と読む例はほかにない。一般には「トキケイ」がつまって「トケイ」になったと思われているようだが、これは間違いである
 江戸城には大きな機械時計が置かれた部屋があり、土圭の間と呼ばれた。昔は時計は「土圭」と表わされ、「時計」とはその当て字である。もともと土圭というのは土地の方角を測定する器具を意味した。羅針盤(方位磁石)がなかった時代は、太陽の運行を
観測して方位を定め、季節や時刻を知った。そのために地面に垂直に柱を立てて、その影の長さを測定した。この柱を中国では表といい(西洋ではグノーモンあるいはノーモンという)、影の長さを測定するために柱に垂直に取りつけた目盛り尺を「圭」または「土圭」といい、あわせて「圭表」と呼んだ。土圭というのは原初的な天文台、あるいは日時計目盛り盤のことを意味したのである
 古代エジプトピラミッド単なる墓ではなく天文台の役割を果たしており、同じくオベリスク(方尖塔)は単なる記念碑ではなく日時計として使われたともいわれる。エジプトのオベリスクほど巨大ではないが、縄文時代の遺跡である環状列石(ストーンサークル)も日時計として使われていたという説がある。有名なのは秋田県の大湯環状列石(万座遺跡、野中堂遺跡)で、明らかに太陽の方向を意識した石の配置となっているという。
日時計は時刻よりも季節推移を知るためのもの?
 環状列石は縄文時代の後期~晩期の遺跡だが、前期・中期の遺跡にも縄文人の生活が太陽運行と無関係ではなかったことを推定させるものがある。たとえば太い柱を二本立てたと思われる縄文時代前期の遺構が群馬県で発掘されているが(中野谷松原遺跡)、二本の柱を結ぶラインは、立夏の日没方向に一致するため、縄文人は二本の柱を方位の基準にしたのではないかという。
 近年発掘され、観光名所ともなった三内丸山遺跡(青森県)は、縄文時代前期から中期にかけて営まれた定住生活の遺跡で、六つの柱穴が三つずつ二列に並んだ掘建柱の建物遺構群が発見されて話題となった。この遺構群の方位は東西あるいは南北方向を示しており、縄文人が方位を意識して建物をレイアウトしたことは疑いようがない。
 単に方位を意識していただけではなく、縄文人は太陽がつくる影の長さから時刻を知る技術をもっていたと仮説を立てる学者もいる。しかし、縄文人が現代人のような時刻をはたして必要としたかは大いに疑問である。朝・昼・夕といった大ざっぱな時刻は、太陽の高度から容易に把握できるし、その時刻感覚は日時計なしに共有できるからだ。
 縄文人日時計を利用していたとしても、それは時刻を知るための時計ではなく、季節暦のように使われたのではなかろうか。つまり日時計の影から読んだのは時刻ではなく、むしろ季節推移だったとも考えられる


日本実業出版社
「暦の雑学事典」
JLogosID : 14820744


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【この辞典の書籍版説明】

「暦の雑学事典」吉岡 安之

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出版社: 暦の雑学事典[link]
編集: 吉岡 安之
価格:1404
収録数: 198221
サイズ: 18x13x1.8cm
発売日: 1999年12月
ISBN: 978-4534030214