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?昭和初期の名店、滝野川「藪忠」のこと
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東京-五つ星の蕎麦蕎麦の蘊蓄 > ハレのそば屋の系譜

昭和八年(一九三三)に発行された「大東京の味覚」という小冊子のそばの項にこんな記述がある。「(前略)悲しいかな、現代において、この広い大東京に手打ちそばと称するものが、滝野川区の中里町にただ一軒存続しているばかりである。その名を「藪忠」という。(後略)」

この「藪忠」、作家獅子文六の随筆にも登場している。「大正の終りか、昭和の初め頃だと思うが、仲秋名月の夜に、文士なぞが集って滝野川のソバ屋で、ソバを食う会というのが、催された」、「そのソバ屋、有名な店であって、主人の長髯の老人が、その晩に限って、自分でソバを打ってくれるという前触れだった」、「やがて、鮎の塩焼きが運ばれ、酒となった」……往年の著名店の様子が断片的にうかがえる。鮎の塩焼きから始まるのが、文士の会なぞをするのにいかにも相応しいそば屋であったと感じられる。この会の参加者は若手として久保田万太郎、佐藤春夫、長老格として幸田露伴国語学者上田万年の名があがっている。そばは少しずつ運ばれてきて座敷の中央に積まれた。「年寄りは、腹が空かないから、後でいいや」と言ってまっ先にそばを取りに行ったのが佐藤春夫で、それを受けて幸田露伴が「年寄りだって腹が空くよ」とニコニコしながら言い返したとある。佐藤春夫のいかにもの傍若無人ぶりがありあり伝わる。人は食べ物シーンにおいて、よくその本領を発揮するものだ。

歌舞伎の世界で、舞台の上でトチると関係者にそばをふるまう習慣があったそうだ(今もあるのかは知らない)。これを“トチリ蕎麦”という。作家の関容子さんが先代の中村屋(中村勘三郎丈)の話でトチリ蕎麦のことを書いている。戦前のことだが、ある時大喜利の「かっぽれ」で中村屋が少々トチった。隣りにいた勘弥がそばだ、そばだとあまりはやしたてるので、思いきって大層派手なトチリ蕎麦を出した。

「あの時分、滝野川に『藪忠』といういい蕎麦屋があって、あくる日そこへ注文して豪勢にトラックで取り寄せた。『かっぽれ』がすんだあと、大道具さんに屋台組んでもらって、演舞場だったけど、表から裏から全部の人に一人二枚くらいずつ行くように出したんだから、そりゃ散財でしたよ」。中村屋の豪気さの伝わるエピソードであるが、そば好きの中村屋が最高のトチリ蕎麦をと思った時に選んだ「薮忠」は、やはり当時特別なそば屋であったようだ

ともあれ、昭和の初期に東京市中で手打ちそば屋の姿がほとんど消えていたというのは、意外な事実と感ずるもっとも「ただ一軒存続しているばかり」というのは正確ではない。少なくともこの頃「一茶庵」の創業者片倉康雄氏の店が新宿から大森に移店して、独自の手打ちそばの展開をしていた。この「一茶庵」は昭和十七年(一九四二)に店を閉じ、同二十九年(一九五四)栃木県足利市で復活した。――この辺りの事情は岩崎信也著『蕎麦と生きる 一茶庵友蕎子片倉康雄伝』にくわしい)。

製麺機が商品化されたのは明治中期であるが、本格的に普及していったのは大正期からだという。だとするなら製麺機は、驚くべき速度で普及したことになる。十数年で、それまで当たり前にあった大東京中の伝統的手打ちそば屋がたちまち姿を消した。――これはただごとではない。そばを打っていたあまたの職人たちは、一体どこへ行ってしまっただろう

料理世界における、道具、調理器具の進化は概ね簡便化、経済効率の為の進化であり、味の為の進化でないことは自明のことであるが、それにしてもそばという日本固有の食文化は、一旦機械の波に飲み尽くされた食ジャンルなのだ。シンプル故に招いた不幸ともいえるが、そんな奇態なことになってしまったジャンルは他にない。このことが、そばは簡便で安いものという固定概念を一層強固にした。ともかくこの荒野が現代そばシーンの原点である


東京書籍
「東京-五つ星の蕎麦」
JLogosID : 14820744


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編集: 見田盛夫/選
価格:1836
収録数: 217軒368
サイズ: 19.8 x 12.2 x 2.2cm
発売日: 2006-12-01
ISBN: 978-4-487-80147-3