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雷電爲右エ門
雑学大全2

古代に神事としてはじまった相撲は、江戸時代になって興行として形をなすようになった。当時、力士番付の最高位は大関であって、横綱はとくにすぐれた大関に与えられる栄誉であり、江戸時代を通して一〇人ほどしかいなかったという。そんな江戸時代の力士で、史上最強といわれながら横綱になれなかったのが、江戸時代後半に活躍した雷電爲右エ門もんだ。当時は場所数が少なかったため、二一年間で勤めた場所は三五場所。しかし、二八五戦して二五四勝一〇敗、引き分け二、預かり一四、無勝負五という成績で、勝率は九割六分二厘という驚異的な数字を残している。そんな雷電が四五歳で引退するまで一七年間ずっと大関のままで、ついに横綱になれなかったのには理由がある。この頃の名力士は大名お抱えが普通で、大名は自分が面倒を見ている力士の強さを誇りたがった。雷電も将来を嘱望され、二三歳で松江藩松平氏のお抱え力士となった。八石三人扶持だったというから、足軽並みとはいえ士分であり、帯刀も許されていた。松江藩松平氏は、徳川家康からつながる血筋の家柄だ。興行相撲へデビューすると、いきなり関脇の地位を与えられたのも、松平氏のおかげである。だが、この松平家お抱えというのが雷電の不運にもなった。実は力士番付の決定権を持つ相撲の家元的存在の吉田司家は、熊本藩細川氏の家臣にあたる。細川氏は外様大名の大物である。血筋を誇る松平氏は、雷電を横綱にしたければ外様の細川氏に頭を下げなければならない。細川氏も進んで雷電に栄誉を与えたくはない。この大名どうしの意地の張り合いが、雷電が横綱になれなかった最大の要因といわれている。

  

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