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平城京
雑学大全2

七一〇(和銅三)年、都は藤原京から平城京に移された。遷都の理由は、大宝律令の制定とともに役所が増え、人口も多くなり、藤原京が手狭になったからとする説が有力であった。しかし、近年の発掘調査によると、藤原京の規模は当初推定されていたよりもはるかに大規模で、平城京以上の大きさがあったことがわかってきたのだ。天武天皇在世中に企画され、持統天皇のときに完成したと考えられる藤原京。その規模は当初、東西約二・一×南北約三・一キロの範囲にあるものとされていた。しかし、発掘調査の結果によると、京域はもっと広がりがあり、畝傍、耳梨、香具の大和三山を包み込むほどの規模で、五・三キロ四方もあったことがわかったのだ。それではなぜ都が移されたのか。それは、中国の宮の置き方に習ったものと思われる。先の都、藤原京は京域の中央に宮を置いたが、それは中国の『周礼』に書かれた都城の理想を実現したものらしい。しかし、実際に遣唐使を派遣してみると、眼前の長安城では宮が北辺に置かれていたので、ただちにつくり直して平城京をつくったのが真相だとか。また、木津川の水運もあって物資の調達に便利なこと、政治の動揺や飢饉きん、疫病などに見舞われた記憶を振り払って人心の一新をはかることも遷都の理由にはあったと思われる。そしてまた、右大臣藤原不比等の政治的思惑もあったと推測されるのだ。中流豪族出身の彼は、旧大豪族の権益の入り交じる飛鳥や藤原を嫌っていた。そこで、遷都することで旧大豪族の影響力を同時に弱めようと謀ったとも考えられる。このような様々な要因が絡み、奈良盆地を南北に貫く下ツ道を朱雀大路とした「平城京」が完成する。それは、小規模ながらも律令国家をフルに発揮した「日本型長安城」であった。

  

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