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巌流島
雑学大全2

山口県下関市の関門海峡に浮かぶ船島は、その形が海に浮かんだ船のような形だったからついた名である。しかし、正式名称の船島よりも、「巌流島」という呼び名のほうが有名だ。巌流島の名は、一六一二(慶長一七)年四月に、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ったことから、その名がついた。佐々木小次郎の流名が「巌流」といったため、その名をつけたのだ。不思議なのは、この戦いの勝者は武蔵のほうだったことである。普通は、勝者の名をつけるものではないだろうか。二人の戦いは、武蔵が小次郎に決闘を申し込んだことからはじまった。江戸時代の芝居では、武蔵の親を小次郎が倒したため、武蔵はあだ討ちをしようとしたことになっている。約束の時間は辰の刻(午前八時)だったが、武蔵はいっこうにあらわれなかった。小次郎は波打ち際でイライラしながら待っていた。すると、二時間も遅れて、武蔵が舟をこいでやってきた。武蔵を見るや、小次郎は長い太刀を武蔵の頭を目がけて振り下ろそうとするが、それよりも速く、武蔵は長い櫂をつきだし、小次郎の頭に振り下ろした。そして、倒れた小次郎を島に残し、舟へ飛び乗り、下関へ帰っていったという。そこで、約束の時間に遅れて不意打ちを狙った武蔵の策略にまんまとはまって命を落とした小次郎の悲劇的な死を悼んで、小次郎の名を残したのではないかといわれている。一方、郷土資料によると、武蔵との戦いのために島へ渡ろうとした小次郎に、「武蔵は多くの部下を連れて島に渡っているので、島へは行かないほうがよい」と助言をしてくれる浦人がいたという。けれども小次郎は、「約束したからには、行かなくてはいけない」といって島へ渡り、案の定、武蔵とその部下たちに討たれてしまった。そこで、正直な小次郎を不憫に思った浦人たちが墓を建て、「巌流島」と呼んだとされている。

  

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