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英仏軍駐留
日本史の雑学事典

■13 横浜港に英仏軍隊が駐留?…頻発する外国人暗殺に対する抗議に幕府が折れる
 ロシアの対馬占拠に対し、軍艦2隻を派遣して強硬に抗議した駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは、その一方で、尊皇攘夷派による外国人殺傷テロが頻発したことを理由に、幕府に抗議を申し立て、横浜港にイギリス軍隊の駐留を認めさせている。
 1861年1月、アメリカの駐日総領事タウンゼント・ハリスのもとで通訳をしていたオランダ人のヘンリー・ヒュースケンが、何者かに斬り殺された。攘夷派の犯行とされたこの事件は、諸外国公使に大きな動揺を与えた。
 幕府に対して強硬な姿勢で臨んでいたオールコックは「幕府には我々外国人を保護する誠意も能力もない」として、横浜へ退去してしまった。この事件以前にも、外国人に対する殺傷事件が頻発していたことも影響している。フランスもこの動きに同調した。
 ちなみに、当事者であるアメリカのハリスは江戸に留まり、諸国公使に江戸へ戻るよう説得したという。
 幕府はこの抗議を受け入れ、横浜港への駐留を認めたのだ。だが、外国人部隊の駐留を許したことはすなわち、その国の植民地に転落したことを意味する。フランスも同じく軍隊を置き、合わせて1500名ほどが1875年の明治政府誕生後まで居座ったのである。
 また、撤兵後も、駐屯地はイギリス・フランスの公用地として、両国が租借する権利を得ていたと言われている。この権利が消滅したのは、何と太平洋戦争後のことであった。

  

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