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日本書紀と暦
【にほんしょきとこよみ】

暦の雑学事典2章 暦の歴史エピソード >

◆『古事記』『日本書紀』の元の史料は?
 『日本書紀』が完成したのは、持統天皇の孫にあたる元正天皇の代の養老四年(七二〇年)で、その間に『古事記』がまず完成している(七一二年)。日本で暦日の管理が始まったのは、百済から暦本が献上された直後の推古天皇一二年(六〇四年)頃といわれる。『日本書紀』において、神武天皇以後の歴代天皇の事跡が干支紀年法で表わされているのは、それらの編集過程で施行された元嘉暦および儀鳳暦によって逆算したからである。しかし、逆算して干支を配するには、過去の出来事年月日が何らかの暦によって記録されている必要がある。
 記紀(『古事記』『日本書紀』)の編集には多くの謎があることが古くから指摘されている。たとえば、『古事記』は稗田阿礼が誦習して(読み習って)いた帝紀および旧辞を太安万侶が筆写したとされるが、この稗田阿礼は男性か女性か、はたして実在の人物かどうかはっきりしない。帝紀というのは天皇の系譜の記録、旧辞というのは古くからの神話や伝説の記録をいう。しかし、帝紀・旧辞がいつ頃からあったのかも定かではない。
◆元嘉暦は七世紀初頭の推古朝から使われていた?
 大化元年(六四五年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(のち藤原)鎌足によって蘇我入鹿が倒され、入鹿の父・蝦夷も中大兄皇子の軍勢に囲まれるや、家を焼いて自殺した。こうして大化の改新が始まったとされる。『日本書紀』によれば、蝦夷はこのとき天皇記・国記も焼いたが、国記だけが焼失から救われ、中大兄皇子に献上されたという。天皇記・国記というのは聖徳太子が蘇我馬子(蝦夷の父)と協力して編集した歴史書である。天皇記が焼失したというのが事実なら、何を史料として日本書紀』は完成されたのか。天皇記とは別に帝紀があったのだろうか。
 『日本書紀』の編集責任者は藤原不比等であり、また『古事記』編集にあたって稗田阿礼が誦習した帝紀というのは実は天皇記のことで、稗田阿礼というのも藤原不比等のことだという説がある(梅原猛の説)。こうした論考が発表されるようになったのは一九七〇年前後からだが、作家の坂口安吾は戦後まもない一九四七年、すでに古代史の謎解きに挑んでいる。
 坂口安吾は次のように推理する。「蝦夷入鹿とともに天皇記・国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのではなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的に消滅せしめたのに相違ない」。それは「蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていた」からであり、「書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定にある」からだという(『飛鳥の幻』)。
 では天皇記・国記は、いかなる暦に基づいていたのか。
 暦日管理は推古天皇一二年(六〇四年)頃から始まっているので、おそらく百済から渡来した元嘉暦と推定される。ただし、このことは記紀には載っていない。載せると都合の悪いことが生じるからだろう


日本実業出版社
「暦の雑学事典」
JLogosID : 14820744


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出版社: 暦の雑学事典[link]
編集: 吉岡 安之
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収録数: 198221
サイズ: 18x13x1.8cm
発売日: 1999年12月
ISBN: 978-4534030214