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大化の改新
日本史の雑学事典

■1 大化の改新には首謀者が別にいた?…『改新の詔』に書かれている内容に改編の跡が
 645年、大化の改新――この年号と用語は非常に有名だ。日本史の授業で誰もが耳にしたことがあるだろう。
 しかし、正確に言うなら、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を倒した同年6月12日から、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、朝廷の職制を変えて難波宮に遷都し、翌年1月1日に『改新の詔』を出すまでの一連の過程を大化の改新と呼ぶのである。単にクーデターだけを指すなら、乙巳の変というのが正しい。
 ところで、『日本書紀』などの記述によると、乙巳の変の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足ということになっていて、孝徳天皇(軽皇子)はお飾り的な存在にされている。しかしながら、軽皇子はクーデター関係者と密接な姻戚関係を結んでおり、なおかつ、鎌足が最初に期待した人物が軽皇子だったと言われている。
 どうやら軽皇子は最初からこのクーデターに加わっていたと考えたほうがいいし、何も皇極天皇は軽皇子に皇位を譲る必然性はなかったのだから、この軽皇子こそが事変の首謀者だった可能性が高い。その後、軽皇子は中大兄皇子と対立して失脚してしまうため、影の薄い存在として後世に伝えられたのだろう。
 さらに言えば、教科書にも掲載されている『改新の詔』だが、これを偽書とする声が近年強くなっている。
 詔は『日本書紀』に全文が掲載されているが、この形式が同時期に出されたものに比べて非常に整っており、なおかつ、文言が『日本書紀』の頃に発布された律令に酷似しているのだ。また、郡という行政区は、当時はまだ『評』と称していたことが出土した木簡から判明している。
 こうした事実から、『改新の詔』は、少なくても一部については、『日本書紀』の編者によって創作や改編がなされたと考えていいだろう。

  

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