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満州開拓移民団
【まんしゅうかいたくいみんだん】

日本史の雑学事典第2章 事件の巻 > 昭和時代

■14 満州開拓移民団に日本の農民が殺到…中国残留孤児の悲劇はなぜ起きたのか?
 中国残留日本人孤児は、太平洋戦争末期の満州国へのソ連軍の侵攻によって生まれた悲劇だ。
 戦前の満州国(現・中国東北部)は、表面上は独立国家を謳っていたが、実質的には日本の植民地で、同国には多数の日本人が生活していた。そこに突然ソ連軍がなだれ込み、日本人を殺害し、あるいは捕虜としていった。そのため、日本人は必死に本国に逃げ延びようとした。その途中で、中国人に泣く泣く我が子を預けたのである
 では、なぜ多くの日本人が、あえて故国を捨てて、はるばる満州にまでやって来たのだろうか?
 それは、日本がすさまじい不況だったからだ。満州事変の前年の1931年、浜口雄幸内閣が金輸出解禁を断行したことで、世界恐慌のあおりを受け、深刻な経済危機に陥った。いわゆる昭和恐慌である。とくに農産物の物価が暴落し、同時に不景気で失業した者たちが農村になだれ込んできた。そのため、日本の農村は欠食児童や娘の身売りなど、悲惨な状況が続出した。
 そんなとき、1932年に満州事変が起こり、翌年満州国が誕生した。政府は満州への開拓移民を奨励し、満州行きを希望した農民に10町もの土地を無料で与えた。つまり、小作人や貧農が、満州へ渡りさえすれば、誰でも地主になれるのである。悲惨な状況から脱するため、多くの農民が新天地・満州を目指していった。地主への夢、フロンティア精神をくすぐる国策だった。
 1936年、広田弘毅内閣は、今後20年間で100万戸、500万人の開拓民を満州へ送り出すと発表、これをきっかけに移民はいっそう促進された。同じ頃、一般の開拓移民とは別に『満蒙開拓青少年義勇軍』の募集が始まる。これは、16歳から19歳の青少年で構成された移民団である。彼らにも広大な土地が与えられるため、とくに農家の次男・三男が多く応募した。
 ところで、なぜ満州の土地を多くの日本人に無償で与えることができたのか? それは、満州拓殖公社という国策会社が、中国人からただ同然の安い値段で、強制的に買い上げたからだ。つまり、中国人の犠牲のうえに成り立っていた政策であった。だが、500万人の移民を豪語した政府の計画も、最終的に32万人(一般開拓民22万人、義勇軍10万人)で終わった。
 昭和恐慌で中小企業が倒れ、財界の再編が進んだ結果、日本経済が好況に転じたからという理由もあるが、1937年に日中戦争が始まり、1939年のノモンハン事件でソ連軍との仲も険悪になったあげく、1941年から太平洋戦争が始まってしまったことも影響している。
 国内の好景気と日中・太平洋戦争の徴兵による人手不足により、日本の農村は、満州へ人を送るどころではなくなっていったのだ。
 そんなことから、1940年代に入ると、一般の開拓民は急減したが、それに代わるように『満蒙開拓青少年義勇軍』は増えていった。義勇軍に参加する青少年の多くは、国家のために新天地を開拓しようという忠義心から満州へ渡ったのである。当時の忠君愛国教育の結果であろう。
 しかし日本軍は、太平洋戦争の戦況が悪化してくると、これに全力を注ぐべく、ソ連が攻めてくる可能性があったにもかかわらず、満州から大半の兵を引き上げてしまった。あれほど移民をあおっておきながら、開拓民を見捨てたのだ。
 もし、太平洋戦争前の兵力が満州に残してあったなら、せめて開拓民や義勇軍が本国に避難する程度の時間稼ぎはできたはずである。そうなれば、中国残留日本人孤児の悲劇も避けられた可能性が高かったに違いない。


日本実業出版
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14820744


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【この辞典の書籍版説明】

「日本史の雑学事典」河合敦

歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。

出版社: 日本史の雑学事典[link]
編集: 河合敦
価格:1404
収録数: 136語224
サイズ: 18.6x13x2.2cm
発売日: 2002年6月
ISBN: 978-4534034137