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明暦の大火
雑学大全2

「振袖火事」の別名がある「明暦の大火」は、一六五七(明暦三)年に本郷の本妙寺が火元となって江戸の町の大半を焼き尽くした。明暦三年一月一八日昼過ぎの出来事だった。別名の由来は、供養のためにお焚き上げしていた振袖が、強風にあおられて寺の屋根に燃え移ったからという。湯島から神田、日本橋と町人町を燃やし尽くして、いったん収まったかに見えた火は、翌朝に小石川で再燃し、夜には?町からも出火、ついには大名屋敷や江戸城天守閣まで焼き尽くしてしまった。この火事で大名屋敷は移転を余儀なくされて、大規模な再配置がおこなわれ、江戸城近くに位置していた社寺も周辺地域へ移転することになった。死者は数万人を数えたというこの火事は、強風、二カ月以上も降雨のなかった乾燥した空気などが被害を大きくした原因とされる。しかし、二日間で三件もの出火、火事の後に江戸の町が大きくつくり変えられたという点に注目して、放火ではないかという説を生むことになった。当時の江戸は開幕から半世紀あまりが経っていた。政治の安定とともに江戸に流入する人口も増えた。町は増殖していたものの無計画に建物が増えただけだった。幕府が将来を見据えて江戸の町の発展を考えたとき、現代の表現を用いれば町を一度リセットしたくなった。それには火事で焼き尽くすのが簡単だということで放火したというわけだ。この説がもっともらしく映るのは、確かに再建された江戸の町は大名地、寺社地の区分がはっきりし、町人町には火除地としての広小路が設けられた。また大名下屋敷建設のために本所や深川の開発も進められている。江戸が近代都市としての姿を整える契機が明暦の大火だったことだけは確かなようだ。では、もし放火が事実だとすれば、実行犯はともかく仕掛け人は誰だろう。真っ先に挙げられるのが、当時の老中、知恵伊豆こと松平信綱であるというのが、この説を唱える人の一致した意見である。

  

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