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豊臣秀頼
日本史の雑学事典

■10 豊臣秀頼が大坂城から脱出?…自刃せず、薩摩へ逃げ延びたという生存説は本当か
 徳川家康は晩年、立派な青年武将に成長した豊臣秀頼に危惧を抱き、強引に大坂の役に持ち込み、秀頼を滅ぼしてしまった。秀頼が大坂落城にさいし、城内で母・淀殿と共に自刃したのは1615年5月8日のことだが、遺骸はついに特定できなかった。徳川兵は、城内をくまなく探したが、火災でどの遺体も損傷がひどく、判別が不可能だったと伝えられる。
 その1か月後の6月、イギリス・東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、自分の日記に「豊臣秀頼は生きているといううわさがある」と記し、さらに3か月後、「秀頼が重臣に伴われて薩摩あるいは琉球へ逃れたらしい」とも記している。これが、秀頼生存説の最初である。
 やがて時が経つにつれ、秀頼生存伝説は、具体的かつ詳細になっていく。
『備前老人物語』には「秀頼の腹心・大野治長らが、秀頼を裸にして菰にくるみ、城の水門から堀へと流すと、待ち受けていた織田有楽斎(信長の末弟で、千利休門下の文化人として知られる人物)が秀頼を拾い上げて小舟に隠し、淀川へ運ぶ。淀川では加藤忠広(清正の息子)が2重底の船を用意して待機しており、有楽斎から秀頼を受け取って2重底に隠し、肥後へ落ち延びさせた」と書かれている。
 また、肥前平戸藩主・松浦静山が書き留めた随筆集『甲子夜話続編』には、薩摩に逃れた秀頼が、晩年は落ちぶれてアルコール中毒になり、周囲の人々にからんで非常に嫌われたという、妙にリアリティーのある話が載っている。

  

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