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徳川家斉
雑学大全2

「不倫は文化だ」と発言して、世間から総攻撃を受けた芸能人がいたが、世が世なら、不倫そのものがない、一夫多妻で堂々としていられた時代もあった。江戸幕府の将軍や大名にとって、跡継ぎをつくることは絶対の義務だった。それは戦国大名も同じである。彼らが正室のほかに何人もの側室を抱えていたのは、それが第一の理由である。ところが、跡継ぎづくりの度を超して、なんと五五人もの子どもをつくった将軍が江戸時代にいたのである。その人の名は徳川家斉(いえなり)(一七七三?一八四一)、江戸幕府一一代将軍である。将軍職を次いだ当初は松平定信を老中として寛政の改革を実行したが、定信がその緊縮財政、倹約ぶりを嫌われて失脚すると一転、幕府の政治は一気に放漫となる。大御所時代と呼ばれる、華やかなひと時代を築いた人物だ。将軍家斉の名は、家康などと比べるとあまり有名ではないが、その性に対しても権力に対しても貪欲な姿勢は、徳川将軍のなかでも抜きん出ている。家斉が最初の子をもうけたのは一五歳のとき。それ以来、子づくりに励んでついに五五人である。正室は薩摩藩主島津重豪の娘。側妾(めかけ)は四〇人ともいわれ、そのうちの一六人が家斉の子を産んでいる。正室が産んだのは一人、あとの五四人は側室に産ませた子である。これは幕府の公式記録だから間違いはない。五五人の内訳は男子二八人、女子二七人である。家斉一五歳のときから五五歳までの間に、自分の子どもが生まれなかった年は七年しかなく、多い年では四人も生まれた。さすがに老中の松平忠信は、体によくないから控えるようにと進言したようだが、子どもの数を見れば、そんなことには耳を貸さなかったのだろうということがうかがえる。ただ、乳幼児の死亡率が高かった時代のことである。五五人のうち四人が死産、二八人が六歳未満で死んでいる。とはいえ二三人が成長したわけで、これら将軍の子をどうするかが老中たちの悩みの種となった。他家に嫁がせたり、養子に出すにしても将軍家の格というものがある。また、受け入れるほうも準備にそれなりの費用がかさむ。御三家などはすぐに埋まってしまい、親藩、有力外様大名へと、将軍の子どもたちの行く先は広がっていった。東京大学のシンボルとして有名な赤門。あの門は、加賀前田家が二十一女の溶姫を迎えるために、本郷の藩邸にわざわざ建てた御守殿門である。

  

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