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三島由紀夫
雑学大全2

一九七〇(昭和四五)年一一月、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に自衛隊員の決起を促して乗り込み、失敗すると割腹自殺におよんだという衝撃的な最期を迎えたのが三島由紀夫だ。彼は日本の戦後期を代表する作家であり、ノーベル賞候補になったほど筆名は高かった。戯曲も著したかと思えば、作品のモデル問題で世間を騒然とさせ、自作品の映画化では主演を務め、ギリシア的健康美への憧憬からボディビルに励むなど、彼の一生は数々の伝説に彩られている。こうした三島の人生観は、彼の育った時代背景と家庭環境抜きにはあり得なかったといえる。三島は、本名を平岡公威といい、農林省の高級官僚を父として一九二五(大正一四)年に生まれた。両親を「お父ちゃま、お母ちゃま」と呼ぶような家庭で、学校は初等科から学習院に学び、東大へ進んでいる。卒業が一九四七(昭和二二)年だ。まさに戦時色の真っただ中に思春期を送ったことになる。三島が文学に興味を示しはじめたのは、学習院中等科時代。その頃父親は転勤で大阪勤務であり、文学などに傾倒している息子の軟弱ぶりに大きな不安を抱いていたようだ。大阪から書き送った手紙で「物理とか機械とか化学という方面に頭を使ってみないか」などと諭しているからだ。ときには息子の書いた原稿を見つけて破り捨てるようなこともしたという。こんな父親に気を遣ったとも考えられるし、学習院在席という立場もあったのだろう、雑誌『文芸文化』の編集同人に知遇を得て作品の掲載が決まったとき、本名での掲載を彼にためらわせた。そこで同人たちが選んだのが三島由紀夫という名前だった。編集会議のために修善寺に向かう途中、同人たちは東海道線の三島駅で雪をいただいた富士山を見た。そこから「三島」という姓はすぐ決まったが、「ゆきお」の文字に少し頭をひねったようだ。結局は古典に傾倒していた三島が万葉仮名っぽい「由紀夫」にしたという。こうして掲載されたのが、処女作『花ざかりの森』で、三島が学習院中等科五年のときのことである。

  

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