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江戸日本橋
道と路がわかる事典

東海道、東山道、山陽道などの七道は、都から各国府を結ぶ幹線道の名称であるとともに、行政区分の名称でもあった。東海道は常陸、下総、上総、安房、武蔵、相模、甲斐、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、志摩、伊賀の一五か国から成る。しかしこの行政区分、律令国家が成立後に定めた当時のものではなかった。当初、武蔵は東海道ではなかったのである。
武蔵国は七七一年に東海道に新たに加わったもので、それまでは東山道に属していたのだ。当時の東海道の経路は、相模の三浦半島から東京湾を横断し、房総半島(上総)に上陸。そこから北へ向かって、常陸の国府に達していたのである。
房総半島は、北部が下総、南部が上総であることを不思議に思ったことはないだろうか。普通は北が上で、南が下のはずだ。また、都に近い方が上で、遠い方が下でもあった。上野(群馬県)が下野(栃木県)より、都に近いことからもそれがわかるだろう。上総を下総の位置関係もこれと同じ理屈で、東海道が海路をとっていた当時は、上総の方が下総より都に近かったのである。
当時の東海道が、三浦半島から房総半島に渡る経路をとっていたであろうことを物語る伝説が残っている。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征した折、相模国の三浦半島から船で上総国へ渡った。だが、日本武尊の乗った船は暴風雨に見舞われた。妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は、荒れ狂う海の神を鎮めるため、海に身を投げた。やがて海は静まり、日本武尊は無事上総へ渡ることができた。最愛の妻を失った日本武尊は、「君去らず袖しからみに立浪のその面影を見るぞ悲しき」と詠い、妻との別れを惜しんだという伝説である。「君去らず」が木更津に転訛したといわれている。
木更津といえば、東京湾アクアライン(東京湾横断道路)の千葉県側の入口だ。また、木更津の南に隣接する君津市は、君去津の略称地名だという。この日本武尊がたどった経路こそ、まさしく東海道だったのである。
なぜ、相模から武蔵へのコースをとらなかったのか。当時、利根川は東京湾に注いでいた。東京湾の最北部に位置していた武蔵国には低湿地が広がり、通行が困難であったのだろう。だが、やがて陸奥部の陸化にともない、陸路が整備された。そして、東海道も海路から陸路に変更された。と同時に、武蔵は東山道から東海道に移された。ということは、海路をとっていた当時の東海道の終着駅は、常陸の国府の水戸だったということになる。もし東海道の経路に変更がなかったとしたら、恐らく江戸は東山道のままであったはずで、日本橋が東海道五三次の起点にはなりえなかった。歴史は大きく変わっていたであろう。

  

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