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絹の道
道と路がわかる事典

「絹の道」といえば、東洋と西洋を結ぶ古代の交通路。中国から西アジア、ヨーロッパへ絹が運ばれた道としてあまりにも有名だが、日本にもいささかスケールは小さいが、絹の道が存在したのである。だが歴史はそれほど古くはなく、江戸後期になってからのことだ。
秩父や多摩地方は古くから養蚕業が盛んで、生糸の生産はこの地方の主要な産業だった。その集散地として栄えた八王子は、織物の町でもあった。伝統は今も受け継がれ、ネクタイ地の生産は全国の五〇%以上を占めているほどである。
一八五八(安政五)年、日米修好通商条約が締結されると、下田、箱館のほか、神奈川、長崎、新潟、兵庫(神戸)に港が開かれ、その後神奈川から主力の移された横浜港は、貿易が活発になった。その中心が生糸、絹製品だったのである。貿易が盛んになると、生糸は秩父や多摩地方からばかりではなく、信濃、甲斐、上野などからも八王子に集まり、八王子は生糸の一大集散地としてますます栄えた。特に八王子の南にある鑓水村(現八王子市)からは、鑓水商人と呼ばれる多くの絹商人を輩出し、絹取引で富を築いた豪商たちの屋敷が、街道筋に軒を連ねた。
横浜港も生糸、絹製品の貿易が原動力となって著しい発展をみせた。貿易額の八〇%以上を生糸、絹製品が占めるときもあったほどである。八王子から町田を通り、横浜港までの四〇kmあまりの道のりが「絹の道」と呼ばれる街道で、この道を頻繁に絹商人が往来したのだ。しかし、一九〇八(明治四一)年に八王子と横浜間に鉄道が開通すると、絹の輸送は鉄道に取って代わられ、「日本のシルクロード」とまで呼ばれたこの街道は、すっかり廃れてしまった。かって繁栄した絹の道も、鑓水の一部に名残りをとどめているにすぎない。

  

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