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駒づくり
日本史の雑学事典

■9 将棋の駒づくりは武士の誇り高き内職…不満分子も思わず納得の理屈とは?
 山形県天童市と言えば、将棋の駒で有名である。年間およそ100万組を製造し、それは全国の生産量の95%に当たるというから、ほぼ寡占状態である。実はこの駒づくり、天童藩士の内職として、幕末の頃から盛んになったのだ。
 天童藩の藩政改革を断行した中老(家老の次席)吉田大八が米沢藩から駒師を招き、藩士に生産を奨励したのが始まりである。
 天童藩は、わずか2万石の小藩。そのうえ、天保期以後の連続的な凶作で、財政は破綻してしまっていた。藩士の生活も危機的状況にあった。そこで藩は、吉田大八を改革取締頭取に抜擢し、藩政改革に当たらせたのだった。
 藩士の駒づくりも改革の一環であったのだが、これに関しては、「武士が職人の真似をするのは好ましくない」という批判も強かった。
 だが、それを聞いた大八は、「将棋の駒をつくって何が悪い。将棋を指すということは、兵法戦術を習うことにつながる。決して、武士の面目を傷つけるものではないはずだ」と強く反駁、不満の声を押さえ込んで、駒づくりを推進したのだ。
 自分が正しいと思ったことは貫き通す。反対者があれば、目上の者だろうと、完膚なきまでに叩き伏せてしまう激しさが、大八の特徴だった。
 そのため、彼を尊崇する人間は多かった反面、多数の敵をつくった。何度となく謹慎処分をくらい、収賄の疑いで牢獄にぶち込まれたこともある。
 そのたびに回生を果たしてきたのは、頭脳明晰で仕事ができ、藩主・織田信学に絶大な信頼があったためだった。

  

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