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永井荷風
雑学大全2

『?東綺譚』などの代表作を持つ永井荷風は、一九五九(昭和三四)年に没しているが、その作品のほとんどが戦前に発表されたものである。ただ一つ死後に刊行された『断腸亭日乗』は、一九一七(大正六)年に書きはじめられ、死の前日までの四二年間にわたって書き続けられた日記だ。一九三七(昭和一二)年の『?東綺譚』を最後に、荷風は作品の発表をやめるが、これは軍国主義に染まっていく社会風潮に抵抗してのものだったという。もともと強烈な個人主義の持ち主で、文壇はもちろん世俗からも距離をおいた生活ぶりだったものの、戦中の社会に迎合せず自分の生き方を貫く姿勢は、戦後になっても保たれ続けた。戦時中も筆を折っていたわけではなく、密かに書いていた作品は文壇にも社会にも受け入れられ、「大家の復活」と評されて文化勲章も受章している。それでも、戦後に移り住んだ千葉の市川から、その風情をこよなく愛した浅草へ通うという浮き世離れした生活は一貫していた。裕福な家庭の生まれだったため、父の遺産相続も多額で、印税収入も多かったのである。しかし一方で、質素な住まいに粗末な衣服という生活ぶりで、友人知人たちからは変人扱いされていたという。その奇行は、一九五四(昭和二九)年の盗難事件でさらに広く世間に知られることになった。盗まれたのはボストンバッグで、彼がどこへ行くにも常に携行していたものだった。電車の網棚から持ち去られたバッグは、後に拾得物として届けられたが、その中身が注目されたのだ。入っていたのは、定期と普通の預金通帳、文化功労年金通帳などで、残高総額一七〇〇万円あまり。サラリーマンの初任給が一万円前後の時代のことである。それでも、全財産を常に持ち歩くという習慣は変わらなかったようだ。深夜、一人住まいの自宅で吐血によって孤独な死を迎えた荷風の傍らには、ボストンバッグが置かれていた。総額はさらに増え、二三〇〇万円を超えていたという。生前の偏屈ぶりをあらわすように、彼の最期の部屋はホコリとクモの巣だらけだったという。

  

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