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葵の紋
雑学大全2

テレビ時代劇で長寿番組を誇る『水戸黄門』の人気のもとは、勧善懲悪がはっきりしている点だろう。それとセットになっているのが、「この紋所が目に入らぬか!」の決めゼリフである。悪人相手にしばらく刃を交えた後、おもむろに取り出される印籠に記されているのが、徳川家の独占であった葵の紋だ。葉が三枚描かれているところから、三葵(みつあおい)、三葉葵(みつばあおい)などと呼ばれて、徳川将軍家、御三家など松平氏の血筋の家系でなければ使えなかった。一口に葵の紋とはいえ、三つ葉という点だけが一致していて、水戸、尾張、紀伊の徳川御三家は、少しずつ意匠が異なる。各地に城を与えられた松平家もまた、似て非なる葵の紋だった。この松平家というのが、徳川家康の出自である家系で、最初に葵を紋所にしたのは、家康の祖父の松平清康だった。岡崎城主だった清康が、宿敵・今川義元領の吉田城を攻め落とした一五二九(享禄二)年のこと。戦勝祝いは、凱旋途中に清康配下の本多正忠の居城・伊奈城でおこなわれた。そのとき正忠が、城の庭の池から水葵の葉を摘んで酒肴を盛る皿がわりに使った。この戦いでの正忠の働きに功があり、本多家の紋が立ち葵だったこととの一致もあり、喜んだ清康が松平家の紋として譲り受けたのである。立ち葵の紋は、葉柄の部分が縦に長く立ち上がったもの。それを、広げた葉が三枚、丸く並んで葉脈を細かく描きこんだ形の紋に変えたのは家康だった。徳川家が将軍家として世襲制を敷き、権力を増大するのに合わせ、紋の威力も増したのである。そんな葵の紋を生むきっかけになった伊奈城があったのが、現在の愛知県小坂井町佐奈川付近。城跡はないが、田園地帯に広がる森がそれを偲ばせ、なかに「花はなヶが池いけ」がある。これが水葵を摘んだという池で、通称「葵が池」と呼ばれている。

  

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