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ヴィトン
雑学大全

日本人のブランド好きは、世界中のメーカーやデザイナーのよく知るところで、次々に東京店・日本店がオープンしている。パスケースやキーホルダー、ポーチのような小物なら、ちょっとお小遣いをためれば買えるから、女子中学生だってブランド品を持つ時代だ。
けれど、一ドル三六〇円時代は、海外旅行での外貨持ち出し額に制限があったため、すでに名声を確立しているブランドの優れた商品だとわかっていても、買って帰ることはかなわなかった。日本にブランドブームが起こるのは、その制限が取れ、円高が進んだ時代からであった。
しかし、さかのぼれば外貨持ち出しの制限がなかった遠い昔、すでにヨーロッパで超一流だったルイ・ヴィトンのバッグを買っていた人がいた。明治維新に功績があり、新政府の高官も務めた後藤象二郎である。
土佐藩士に生まれた後藤は、叔父が藩の役職にあったことから若くして登用されたり、叔父の暗殺で不遇になったりと、土佐藩が攘夷だ、佐幕だと意見が揺れるたびに不安定な立場に置かれ続けた。結局は坂本龍馬の案である「大政奉還」を幕府に勧めるよう藩主に進言したことで、維新の功労者となった。
彼の上がったり下がったりのエレベーター人生は、新政府になっても続き、薩長閥中心の政府を下野し、同郷の板垣退助とともに自由民権派になる。彼のヨーロッパ視察旅行は、この不遇の時代に板垣と同行したもので、そのとき買ったのがヴィトンのトランクだったのだ。
ヴィトンは、顧客管理がしっかりしていることで知られ、一八八三(明治一六)年一月三〇日、パリ店を訪れて購入したことが、顧客名簿にちゃんと記録されている。しかも、買ったトランクは、クラシックなストライプ柄のものということまでわかっている。それも当然で、市松柄が誕生するのは一八八八(明治二一)年から、おなじみのLとV、花と星の柄が登場するのは九六年からだからである。
ところで、不遇にありながらこの洋行ができたのは、明治政府が自由党勢力の力をそぐため財閥の三井に資金を提供させたからだとして、後に問題になっている。ルイ・ヴィトンのような高級品を購入できた裏には、政商ともいえる存在があったわけで、政治家の視察は、いつの時代も大名旅行のようである。

  

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