日本の暦①
【にほんのこよみ】
【暦の雑学事典】 3章 暦の進化史 >
◆大和朝廷のお雇い外国人教師
日本において暦が登場する最古の文献は『日本書紀』である。欽明天皇一四年(五五三年)に、「(百済から雇用していた)医博士、易博士、暦博士が交替の時期であるから、次の交替要員といっしょに卜書(占術書)、暦本、種々の薬を送り届けよ」という内容の記述があり、翌一五年には医博士、易博士、採薬師(薬物専門家)とともに、暦博士・固徳王保孫が来日したといわれる。
交替の時期というからには、それ以前から暦博士が、暦をもたらしていたことは明らかだ。『日本書紀』によれば、すでに継体天皇七年(五一三年)には、五経博士・段楊爾が来日し、同一〇年には、段楊爾にかわって漢高安茂が来日している。五経博士というのは、『易経』『書経』『詩経』『礼経』『春秋』の五経に通暁した学者のことで、暦に関する知識をもたないはずはない。
また、これをさかのぼる履中天皇四年(四〇三年)には、諸国に記録官として国史が配置されている。彼らは応神天皇の時代に来日して帰化した百済の阿直岐や王仁、漢人の阿知使主(東漢氏の祖)の子孫といわれる。国史というのは朝廷記録や外交文書に携わる文官であり、漢字の読み書きはもちろん、年号・日付の正確な記載が要求される。どうやら朝廷は最初は帰化人の助けを借り、のちには朝鮮半島から専門家を招いて、最新の学問・技術の導入を図ったようだ。五経博士や暦博士は明治期日本のお雇い外国人教師のような存在だったのである。
◆正式な暦の頒布は持統天皇の時代から
朝鮮半島から暦本がもたらされても、それを利用するには暦法に通暁する必要がある。中国の暦法に従った暦が日本で初めて施行されたのは、西暦七世紀の推古天皇の時代である。『日本書紀』には推古天皇一〇年(六〇二年)に、百済の僧・観勒が、「暦本、天文地理書、遁甲方術書(忍術書・科学技術書に類した書)」を携えて来日したので、朝廷は数人の学生たちに手分けしてこれを習得させ、同一二年(六〇四年)の正月から用いたと記されている。このとき渡来した暦というのは、当時、百済で使われていた中国の元嘉暦(四四三年に作成された宋の暦)と推定されている。
しかし、日本で公式暦が頒布されるようになるには、さらに半世紀以上の歳月を要した。その間、大化の改新(六四五年)、壬申の乱(六七二年)などの政争・戦乱があって、暦どころではなかったのだろう。ようやく持統天皇四年(六九〇年)になって頒暦の勅命が下り、同六年(六九二年)から施行された。『日本書紀』ではこのとき「元嘉暦と儀鳳暦が用いられた」と記されている。儀鳳暦とは唐の麟徳暦(六六五年)のことだが、平朔法の元嘉暦と違って定朔法が採用されている。ちなみに『日本書紀』の暦日は雄略紀以後は元嘉暦で記載され、それより前はあえて計算が簡便な平朔法の儀鳳暦で記載されていることが明らかにされている。これは『日本書紀』の編年作業が儀鳳暦の伝来以後であることを物語るという。
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「暦の雑学事典」吉岡 安之 |
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