茶室
【ちゃしつ】
【雑学大全2】 地理 > 場所
戦国時代の武将、豊臣秀吉が茶の湯を好んだという話は誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。一見、無骨な武将と茶の湯は縁遠いイメージがあるが、室町時代のはじめ頃、現在につながる茶の湯がはじめられたときから、茶の湯と武士とのつながりは深く、政治にもしばしば利用された。茶の湯を政治的に利用した武将として、まず第一に織田信長の名を挙げなければなるまい。信長は、上洛するたびに京や堺の有力商人を招いて茶会を催し、彼らとのつながりを深めようとした。また、戦場で手柄をたてた家臣に、恩賞として茶器を分け与えたり、茶会を開くことを認めたりしている。信長の一の家臣である豊臣秀吉も、武功を立てて高価な茶器を与えられ、茶会の開催を許された武将の一人だった。信長の死後、秀吉はある手紙に、「(上様が)茶湯を仕るべしと仰せ出だされ候、今生後生忘れがたく存候」と書き記している。そんな秀吉にとっての茶の湯は、政治や権勢欲と切り離せないものとなったし、事実、秀吉が催す茶会は、現代のイメージとはだいぶ異なっている。秀吉は多くの茶会を開くが、なかでも一五八七(天正一五)年の一〇月一日に京都の北野天満宮で開かれた大茶会は有名だ。身分を問わずに参加できたので、茶席は八〇〇人もの参加者でにぎわったという。関白位に登りつめ、その年には九州を平定したばかりの秀吉が、得意の絶頂にあったことをうかがい知れるというものだ。そんな秀吉だから、茶の湯を大成した千利休のわび茶を「辛気臭い」と評し、自身の趣向は豪華絢爛、言葉は悪いが金ぴか趣味となっていく。この秀吉の趣味を象徴するのが黄金の茶室である。大阪城内につくられたこの茶室を見物した吉田兼見は、「ことごとく黄金。座敷ももちろん黄金なり。畳は猩猩皮(紅色の織物。猩猩緋、か)にて、縁は黒地の金襴。三国(日本、中国、インド)においても前代未聞のもので、その見事さは筆舌に尽くしがたい」と書き残している。黄金の茶室の大きさは三畳。天井、壁、柱、鴨居などには金箔が張られ、障子の腰板や桟には、金と緋色模様が描き出されていたらしい。床の間には、黄金の金具をつけた梨子地三重棚があり、そこに置かれている茶道具はすべて黄金製、黄金でないのは竹製の茶杓と茶筅だけというから徹底している。しかもこの茶室は組み立て式で、秀吉は黄金の茶室をいくつかに分解して長持ちに入れ、小御所に持ち込んで茶会を開いたという。やはり、秀吉にとって茶の湯は、簡素な空間で静かな時を楽しむものではなく、自らの権勢を人々に見せつけるためのものだったのだ
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【この辞典の書籍版説明】
「雑学大全2」東京雑学研究会 |
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浜の真砂は尽きるとも,世に雑学の種は尽きまじ。新たな1000項目で帰ってきた,知的好奇心をそそる雑学の集大成第2弾。 |
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