醤油
【しょうゆ】
【日本史の雑学事典】 第9章 食と習慣の巻 > リスト
■7 日本人の味覚の基本・醤油のルーツをたどる…「醤」と「溜」、2つの起源
いまや醤油は、ソイソースの名で海外でも広く調味料として知られるようになったし、日本人が訪れる海外観光地のレストランには、必ずと言ってよいほど醤油が常備されるほど、日本人には不可欠なものだと認識されている。
では、日本人になくてはならないこの醤油は、誰がいったいどのようにして造り始めたものなのだろうか?
もともと醤油の原型は、中国から渡来した醤と呼ばれたものである。塩と麹と酒などに、魚や獣肉、野菜や穀物を漬け込んで発酵させたものだ。塩辛や漬物、秋田名物「しょっつる」に似ていると思ってほしい。
醤には、原材料によって、動物性の魚醤、肉醤、植物性の草醤、穀醤といった種類が確認されている。
なかでも、米、麦、豆など穀物を漬け込んだ穀醤の上澄み液(タレ)が、一番現在の醤油に近い。およそ、3千年前のことだという。
この醤に大豆が使われ、さらに味が醤油に近づいていくのは、それからさらに1千年後のことになる。
醤の製法が誰によって我が国にもたらされたのかは定かでないが、大和時代には、唐醤や高麗醤と呼ばれる新たな醤の製法が入ってきていることが記録に残っている。701年に制定された『大宝律令』のなかに、すでに醤院と称する醤をつくる専門の施設が設けられているという記述がある。
あの鑑真和上も、奈良時代、醤の新しい製造法をもたらしており、さらに平安時代には、醤を販売する店が50軒もあったというから、その頃の日本人には、すでに定着した調味料になっていたようである。
ただし、醤は現在の醤油の直接の起源ではない。現在の醤油は、味噌づくりの過程で生まれる上澄みの液体(溜)が偶然利用されたことから広がったとされる。
鎌倉時代、覚心という僧侶が、宋に留学中に、径山寺味噌(いまの金山寺味噌)の製法を学んで帰国し、1254年から紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)の興国寺で、その近隣の村人につくり方を伝授していた。このさい、味噌樽の底に残る溜が、煮物の調味料に適するということで、次第に利用されるようになったのが始まりと伝えられている。つまり、いまのような醤油のルーツは、実は和歌山県にあったのだ。
醤油が一般に普及するようになるのは戦国時代になってからで、圧搾法が導入されて、今日とほぼ味が変わらない「濃口醤油」が製造されるようになったのは、江戸時代中期のことである。いまの醤油の歴史は意外と新しいのだ。
江戸時代も初期の頃は、大坂、京といった上方が生産の中心で、大消費地・江戸ではこれを「下り醤油」と呼んで、愛用していた。
やがて、江戸時代も半ばになると、江戸の町の人口増加で醤油の需要が拡大し、それを賄うため、消費地に近い「地廻り醤油」の生産が伸びてくるようになった。
関東近郊の水がおいしい地域で、なおかつ江戸への水上運送が便利な土地、具体的には利根川や江戸川流域の野田や銚子(いずれも千葉県)といったところが醤油の名産地となっていったのも、この頃である。
ちなみに、長崎経由で日本に出入りしていたオランダ人たちも、この調味料に目をつけ、醤油は輸出品としても珍重された。一説には、フランスのルイ14世も、料理に醤油を使用したという。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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