すし
【すし】
【日本史の雑学事典】 第9章 食と習慣の巻 > リスト
■3 「すし」の起源は奈良時代…江戸っ子は大トロよりも赤身が好物
世界中の外国人に「日本食と言えば何を思い浮かべるか?」と尋ねたら、おそらく「すし」がナンバー1を獲得するだろう。それほど「すし」は日本食としてメジャーになった。20年くらい前からアメリカを中心に空前の「すし」ブームが起こり、いまでは世界じゅうの大都市に寿司屋がある。
この「すし」という純和風な料理、実は日本生まれとも言えるし、違うとも言える。何とも変な表現だが、その理由はこうだ。
寿司と聞いて、最初にちらし寿司を想像する人は少ないだろう。たいていは握り寿司を思い浮かべるはずだ。だが、握り寿司の歴史は意外に浅く、文政年間(1818~1830年)に始まり、まだ200年にも満たない。
それ以前に「すし」と呼ばれた料理は、握り寿司とは、似ても似つかないシロモノである。
「すし」に関する記述が出てくるのは奈良時代の718年、「養老律令」という法律に租税品として「鮨」「鮓」の文字が登場する。また、平安時代の文献「延喜式」には諸国の貢進として、伊勢国の「鯛ずし」、伊予国の「イガイずし」、讃岐国の「鯖ずし」といった名前が散見される。
だが、ここで言う「すし」とは、魚介類を自然発酵させた食品、いわゆる「くさやの干物」のようなものだった。
やがて、乳酸発酵を早めるために「飯」が添加されるようになる。ここでの飯は、いわば漬物のぬか床のようなもので、食べたりはしなかった。漬け込み期間は1年ぐらいだったというから、飯は食べるに食べられなかったのだろう。こうした「すし」を一般に「なれずし」と呼ぶ。
やがて戦国時代になってくると、数週間程度の漬け込み期間で、ご飯と一緒に食べるようになる。これを「生なれずし」という。現代の滋賀県特産品「鮒ずし」などが、まさにこれだ。
江戸時代中期になると、さらに早く食べようと、箱のなかにご飯と酢と塩を入れ、そこに魚介類を載せ、上から重石をして数日間で食べるようになる。これを「早すし」と称したが、せっかちな江戸っ子は数日間も待てず、すぐに食べたいということで、江戸前の捕れ立ての魚を、握った酢飯に載せて食べるようになった。ここでようやく「握り寿司」の登場である。
この画期的な握り寿司を発明したのは、ファミレスチェーンの名前にもなっている華屋与兵衛という人だ。江戸本所元町の彼の寿司屋は大繁盛だったという。ただ、この頃の「すし」は、あとで述べる天麩羅と同じように、屋台で食べる簡単な、それこそファーストフードのようなものだった。その意味では、いまの回転寿司は先祖回帰なのかもしれない。
現代の握り寿司の王様は、何といっても「マグロの大トロ」だろう。だが、もともと江戸っ子は、腐るほど捕れるマグロを下魚扱いしてきた。ところが、握り寿司にして食べてみると、これがやたらうまい。そのため、やがて他の魚を圧倒し、マグロが握り寿司のメインになったのだという。
ただし、人気の部分はトロではなく、赤身だった。江戸時代の人は、さっぱりした食感を好み、好き好んで脂っこいトロを食べる人間はいなかったというから、時代が変われば好みもずいぶんと変わるものだ。
こうなると、「すし」はどこから見ても日本の料理に思える。確かに、握り寿司は日本人の発明と言える。しかし、その原型である「なれずし」の起源は、何と1700年前に東南アジアの山岳地帯で誕生した料理だという。とすれば、「すし」は日本オリジナルの料理ではないことになる。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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