親鸞③
【しんらん】
【日本史の雑学事典】 第8章 思想・生き方・考え方の巻 > 鎌倉時代
■3 煩悩に苦悩する若き親鸞を聖徳太子が救った?…性欲を戒める仏教に当時の僧はどう対処したのか
ところで、中世の僧侶たちは、どのようにして性欲を克服していたのだろうか?
僧侶たる者は、女性に触れることをはじめ、性行為や結婚生活は絶対に許されなかった。それがゆえに、僧侶は尊く崇められる存在とされたのである。
しかしながら、当時にあっても、完全に性欲を押さえ切ることができたのは、すでに枯れ切って老境に達した仏僧や、俗界で存分に女性を経験してから剃髪した者など、少数派ではなかったろうか――。
人間のなかでもっとも強い欲求は、食欲と性欲なのである。だから、生半可なことでは、これを昇華できないはず。
さらに言えば、仏教では、淫らなことを考えてさえもいけないという。たとえ性行為に及ばなくとも、その思いに耽った瞬間、女犯とみなされるのだ。まことに酷な戒律であり、厳守は不可能に近い。
そういうわけで当時、高僧が妻を持つことは公然の秘密になっていたし、比叡山などでは、女を連れ込む坊主があちこちで散見された。女犯ではないという理由で、稚児(少年僧)を性欲のはけ口にしている者もあった。
そんな趨勢のなかにあって、青年僧の頃の親鸞が、性欲問題を適当に処理せず、この克服に悩み抜いたのは、謹直に仏道修行に取り組んでいた証拠であり、この苦悩がのちに良師・法然との出会いを与え、親鸞を悟りへと導いてゆく誘因となるのだ。
1201年、比叡山にいた親鸞は、性欲という煩悩に苦しんだあげく、ついに山を下って、聖徳太子が建立したという京都烏丸の六角堂に100日間の参籠を始めた。六角堂には、本尊として救世観音が安置されてあった。聖徳太子は、この観音の化身とも言われている。親鸞は来る日も来る日も本尊に向かって、性欲が克服できるよう祈念し続けたのだった。
そして95日目の暁、とうとう親鸞は、聖徳太子の示現を得る。
このとき授かった啓示がどのようなものであったかは、研究者のあいだでいまだ議論の続くところだが、次の四句であったという説が有力である。
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯
一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
つまり、太子は親鸞に、
「行者よ、おまえが過去の宿業のため、女犯をせざを得ないのなら、私が玉のような女の身となって、おまえに犯されてやろう。そして一生のあいだ、おまえを荘厳に飾り、臨終のさいには極楽浄土へと導いてやる」
と語りかけたというのだ。
この啓示によって親鸞は、性欲を断ち切れないという絶望感から解放され、妻を持つことを決意したと言われる。
それにしてもなぜ親鸞は、比叡山にある諸堂に籠もらずに、わざわざ下界まで降りて六角堂に参籠したのだろう?
一つにはこの頃、都の有名寺院に籠もって祈願するのが流行っていたという事実がある。が、たぶん一番の理由は、在家妻帯の聖徳太子が、我が国仏法興隆の祖として尊崇されていたことにあったと思われる。妻帯したままの聖人太子、そこに、性欲に悩むこの青年僧は己を重ね合わせて、一筋の光明を見出そうとしたのであろう。
ひょっとすると、先ほどの『行者宿報設女犯』の啓示は、親鸞自身の内なる声だったのかもしれない。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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