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徳川秀忠
【とくがわひでただ】

日本史の雑学事典第4章 陰謀・暗殺の巻 > 江戸時代

■7 大御所徳川秀忠の苦悶…松平忠長を死に追いやった真犯人は誰だ?
 駿河大納言・松平忠長は、徳川家光の2つ下の同母弟である。2代将軍・秀忠夫妻に大変かわいがられ、一時は家光を差し置いて世嗣になりそうなほどであった。
 1616年、忠長は、兄・家光と同じ日に元服し、甲斐(山梨県)一国を与えられた。1624年には、さらに駿河と遠江(共に静岡県)を加増され、合わせて55万石を有する大大名となった。とくに駿河の地は家康が晩年を過ごしたところで、そこに配されたということからも、当時の忠長の立場がわかるだろう
 だが、1631年、突如として忠長は、すべての領地を没収され、甲斐国へ蟄居させられたのである。家臣を意味もなく手討ちにしたという不行跡が、その理由だとされた。
 1632年正月、大御所(前将軍)秀忠が病死するそれから3か月後、忠長は謀反の疑いにより高崎(群馬県)へ移され、幽閉の身となった。そして1633年12月6日、将来を悲観した忠長は、27歳の若さで自刃したのであった。
 一般的に、忠長を死に追いやった張本人は、兄の将軍・家光だと言われている。忠長は、幼少の頃から家光のライバルであり、成人後も、常に家光を脅かす存在だったからだ。
 しかし、厳密に言えば、忠長を追い込んだのは家光ではない。それは、何と父親の秀忠だった。
 家光が3代将軍になったのは1623年のことだが、幕府の実権はそれ以降も、大御所となった秀忠が掌握していた。その状態は、1632年の秀忠の死まで続いている。そして、忠長の失脚は1631年のことである。だとすれば、忠長の蟄居は、秀忠自身の意志から出たことになる。
 確かに、不思議な話ではある。どうしてあれほど目をかけてきた息子・忠長を、秀忠は自ら罰したのだろうか?
 おそらく秀忠は、我が子を犠牲にして徳川家の安泰を守ろうとしたのだ、私はそう思う。
 家光は、元来病弱でいつ死ぬかわからないうえ、男色趣味が昂じて女性に興味を持たず、まだ子供もいなかった。もし家光が失せたら、次期将軍は間違いなく忠長に回ってくる。それゆえ、秀忠は忠長に、御三家に匹敵する領土と地位を与えた。
 諸大名もそれをよくわきまえているから、忠長に取り入ろうとした。とくに西国大名たちは、江戸参府の往来のさいには必ず駿河に立ち寄り、忠長に伺侯した。忠長は、それらの大名に褒美の品物を下賜し、ねんごろにもてなした。まるで将軍のようであった。
 1631年頃から、秀忠は体調を崩し始めた。自分の体である。もう寿命がいくばくもないことは、自身が一番よくわかる。
 このときに臨んで秀忠は、はたと気がついた。己が存命のうちは良い。だがもし自分が死んだら、おそらくひと悶着起こるだろう。実際、家光を廃して忠長を将軍にしようとする動きもあると聞く。そんなことになれば、日本は再び戦乱の渦に巻き込まれ、徳川家の存続自体が危うくなる。
 それを防ぐには、この、もっとも将軍に近い男をどうにかしなければならぬ。方法は一つ、政治的生命を奪ってしまうことだ。将軍の後釜なら御三家がある。
 きっと秀忠はそう考え、忠長を処罰したのだ。
 もちろん、忠長は秀忠の実子である以上、命まで取ろうとは夢にも思っていなかったはずである。だが、結果的に忠長の自殺が、このときの秀忠の判断に起因するのは間違いない。しかし、その後の将軍家の繁栄を見れば、それが英断であったこともまた、明白であろう。


日本実業出版
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14820744


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【この辞典の書籍版説明】

「日本史の雑学事典」河合敦

歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。

出版社: 日本史の雑学事典[link]
編集: 河合敦
価格:1404
収録数: 136語224
サイズ: 18.6x13x2.2cm
発売日: 2002年6月
ISBN: 978-4534034137