千家
【東京雑学研究会編】
【雑学大全】 そーだったんだ! > 由来
茶の湯には、「表千家」と「裏千家」がある。どちらも千利休を開祖としているのに、表と裏があるのは、どうしてなのだろう。
この二つは、そもそも同じ流派で、「利休流」と呼ばれていたのである。
利休は、豊臣秀吉によって切腹を命じられたので、千家は一時断絶の憂き目にあった。しかし、会津若松の蒲生家に預けられていた、利休の子、少庵が秀吉に召し出されることとなり、千家の再興がかなったのである。
少庵の子である宗旦は、寺に入って僧としての修行をしていたが、千家が再興すると、還俗して千家の三代目となった。
この宗旦は、老齢になって余命いくばくもないことを悟ると、それまで住んでいた屋敷を、息子の一人宗左に譲った。そして、自分は、そこの北側裏手にある隣接地に屋敷を建て、別の息子の宗室とともに移り住んだ。いわば、隠居したようなものである。
ところが、その後、宗左と宗室は、意見が合わずにいさかいを起こし、別々の流派を立てることとなった。つまり、利休のひ孫の代になって、「利休流」は分裂したのである。
分裂した流派には、それぞれの名前をつけなくてはならない。宗左の住む屋敷は表側にあったので、「表千家」、宗室は裏側に住んでいたので、「裏千家」とした。その後、現代に至るまで、表千家の家元は代々が宗左を、裏千家の家元は代々が宗室を名乗っている。
兄弟ゲンカから二つの家に分かれ、それでも隣り合って住んでいるという、どこにでもありそうな話である。
ところで、宗左と宗室のいさかいは、茶の湯の作法についてであり、深刻に敵対したわけではない。表千家が徳川家に仕えたのをはじめ、どちらの流派も有力大名らの庇護を受けつつ、茶道の隆盛を図ってきた。また、裏千家は、明治以降、職場を中心とした婦人層や、女学校へも茶の湯を広め、近年では海外への普及にも努めている。
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