東海道
【とうかいどう】
【道と路がわかる事典】 3章 長い永い道の歴史 >
律令国家が成立後、畿内を基点に放射状に伸びる七道駅路が整備されたが、七道は大路、中路、小路にランクづけされた。その時、唯一の大路は東海道ではなく、山陽道だったのである。
山陽道(西海道の一部を含む)は、都と九州の太宰府を結ぶ幹線道として、朝廷が最も重要視した路線だ。東海道は、東山道とともに中路にすぎなかった。北陸道、山陰道、南海道、西海道は小路であった。七道には三〇里(約一六km)ごとに駅が設けられたが、駅馬の数も大路には二〇頭、中路には一〇頭、小路には五頭と決められていた。
江戸時代には天下の街道として幅をきかせていた東海道も、かつては山陽道より格下の街道だったわけだ。というのも、律令時代に、畿内とともに一大文化圏を形成していたのは筑紫(福岡県)の太宰府だったのである。両地域の交流は活発で、中国や朝鮮からの使節団も、山陽道を通った。とにかく山陽道は、江戸時代の東海道に匹敵する物資の輸送路、文化の伝達路だったのだ。山陽道に古墳や古代遺跡が多いことからも、それがうかがえる。
ところで、当時の国名が都からみた位置関係から名づけられていたことはよく知られている。都に近い越前(福井県)に対し遠い越後(新潟県)、備前(岡山県)に対し備後(広島県)などのようにである。また、都に近い地域を近国といったのに対し、筑紫ははるか遠国の地であった。現在の中国地方は、両者の中間に位置していたことから名づけられた地名だ。もし、畿内と並ぶ一大文化圏を形成する先道地が関東あたりにあったとしたら、恐らく関東を遠国、そして東海地方が中国と呼ばれていたに違いない。
かつては一級の幹線道だった山陽道も、江戸時代には脇街道に格下げされてしまった。
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【この辞典の書籍版説明】
「道と路がわかる事典」浅井 建爾 |
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道を切り口に日本を旅する楽しみに出会う本。身の回りの生活道路の不思議から、古道の歴史、国道や高速道路、橋やトンネル、乗り物まで道と路に関する知識が満載。 |
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