中国の暦③
【ちゅうごくのこよみ】
【暦の雑学事典】 3章 暦の進化史 >
◆迷信深かった秦の始皇帝
中国の歴代王朝においては、正月に盛大な年始の儀式が行なわれたので、一年の始まりをいつに置くかは、暦の作成における重要問題であった。中国古代の夏、殷、周の王朝では、かなり整備された太陰太陽暦が使われていたが、それぞれ正月が異なったらしい。夏では二十四節気の雨水を含む月(グレゴリオ暦の二月)、殷では大寒を含む月(同、一月)、周では冬至を含む月(同、一二月)が正月とされた。これを夏正、殷正、周正といい、秦の始皇帝が中国を統一する以前は、これら三種の正月が混在していたらしい。そこで、始皇帝は大胆にも一〇月を年初とする新制度を施行した。これは戦国時代の思想家・鄒衍の五徳終始説に影響されたものという。
万物の生成変化を説明するために、鄒衍は五行相克説(五行相勝説)というものを主張した。五行は単に万物の構成要素であるにとどまらず、火←水←土←木←金←火(水は火に勝ち、土は水に勝ち……火は金に勝つ)という順で転変するという説で、五徳終始説はこれを王朝交替にも適用してコジツケ解釈したものだ。つまり天の意志を代行する帝王は、五行(木・火・土・金・水)のいずれかを徳として備えていて、前王朝の徳に打ち勝つ徳をもつ者が新王朝を樹立するというのである。
◆太初暦から始まる立春正月
五徳終始説によれば周は火徳で、それを滅ぼした秦は水徳となる(水は火に勝つ)。また、五行の水に対応した月は一〇月となるので、始皇帝は一〇月を年初としたのである。しかし、一〇月を年初とするのはあまりに季節にそぐわないため、秦を滅ぼした漢では、初の公式暦である太初暦の制定にあたって、夏正、殷正、周正のいずれかに正月を移そうとする大論議が展開された。これを三正論という。その結果、採用されたのは夏正である。夏正は雨水を含む月を正月とするもので、通常、この月には立春も含まれる。
こうして太初暦以後、中国では一時期の例外を除いてほぼ二〇〇〇年にわたって立春正月が暦において定着し、また伝統行事としても受けつがれることになった。今日の中国における春節(旧正月)がこれにあたる。グレゴリオ暦の新年よりも盛大に祝われるのは、中国の人々の正月気分は立春の季節感と不即不離の関係にあるからだろう。ただ、二十四節気は冬至を起点として一年を二四等分している。一方、暦においては雨水を正月の中の日としているため、まれに正月節である立春が前年末に繰り込まれてしまうことが起こる。これは年内立春と呼ばれるが、もちろん太陰太陽暦においての話である。
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「暦の雑学事典」吉岡 安之 |
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