ホー・チ・ミン
【ほーちみん】
【雑学大全2】 ヒトの不思議 > 人物
ベトナム革命の指導者であり、ベトナム民主共和国初代大統領のホー・チ・ミンは、その功績に似合わず、国民から「ホーおじさん」と呼ばれ親しまれる人物だった。教科書や事典にでてくる写真を見ても、ヤギひげをはやし、すりきれたゴムサンダルを履いて、いつも柔和な笑みをたたえている。そんな彼のいったいどこに、フランスやアメリカなどの大国を相手に徹底抗戦を挑んだ底力があったのだろうか。ホー・チ・ミンは一八九〇年、ベトナムの中部の村で三人兄弟の末子として生まれた。当時ベトナムはフランスの植民地だった。反体制的な傾向を父から受けついだホーは、納税拒否闘争に参加するなどして政府から目をつけられ、当時通っていた学校も退学してしまう。以後、船員としてフランスへ渡った彼は、フランス社会党に入党する。そして、第一次世界大戦終結の際のヴェルサイユ会議に自らが結成した在仏ベトナム人愛国者団を代表して出席し、八項目からなる「ベトナム人民の要求書」を提出した。採択はされなかったが、この一件で名を高めた。その後、モスクワなど世界各国で活動したが、一九四一年、密かに国境を越えて中国からベトナムに入ったホーは、ベトミン(ベトナム独立同盟)を旗揚げする。第二次世界大戦後の一九四五年九月、ベトナム民主共和国の独立を宣言した彼は、フランスと粘り強く交渉にあたったが決裂。翌年一二月一九日、フランス軍はベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始し、第一次インドシナ戦争が勃発した。ホーはフランスにこう警告したという。「われわれがフランス兵を一人殺す間に、フランスはベトナム兵を一〇人殺せる。しかしたとえそうであっても、フランスは負け、われわれが勝つ」と。そして一九五四年、ジュネーヴ協定が締結され、ベトナムをはじめとするインドシナ諸国の独立が認められた。彼の精神はその後、ベトナム戦争でアメリカと戦ったときにも引き継がれ、数百万人のベトナム人が犠牲になってもホーの決心は揺るがなかった。一九六九年、念願の祖国統一を見ることなくホーは突然の心臓発作で七九歳の生涯を閉じた。「盛大な儀式をすることなく、火葬にして山の山頂に散骨してほしい」と遺言したが、彼の後継者たちはモスクワのレーニン廟びょうにならって、遺体に防腐処理を施して霊廟に安置した。
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【この辞典の書籍版説明】
「雑学大全2」東京雑学研究会 |
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浜の真砂は尽きるとも,世に雑学の種は尽きまじ。新たな1000項目で帰ってきた,知的好奇心をそそる雑学の集大成第2弾。 |
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