福沢諭吉①
【ふくざわゆきち】
【雑学大全2】 ヒトの不思議 > 人物
一八六八(慶応四)年に慶応義塾を開いた福沢諭吉は、それまで幕府外国方を務める幕臣だった。九州の豊前中津藩士の家に生まれた彼は、緒方洪庵の適塾で塾頭にまでなった経歴を買われて、一八六〇(万延元)年の咸臨丸渡米に随行、帰国後に幕府に登用されていたのである。幕臣に採用された後、ヨーロッパ派遣使節、再びの渡米派遣使節を経験した諭吉は、彼なりの国家観を持つようになる。しかし力の衰えの隠せない幕府、いたずらに排外意識を募らせている尊攘派のいずれにも失望して野に下ったのである。明治維新後、旧幕臣たちは、幕府に殉じて隠遁生活に入った者、新政府に役人として出仕した者、民間人として新しい人生をはじめた者の三グループに分けられるが、諭吉はこの三番目のグループだったといえる。彼の経歴から、誕生した新政府から出仕の要請があったが、それもきっぱり断り、人材育成、著書による啓蒙の道を突き進んだのだった。そんな彼の名をいちやく高めたのが、『学問のすゝめ』だ。一八七二(明治五)年から四年をかけて一七編のシリーズで刊行されたこの著書で諭吉は、国家の本来あるべき姿、その国家を構成する国民の持つべき姿勢について説いている。それは個人の独立・自由・平等を基本にして、国家は形成されるべきものだというもの。国民はそうした意識を持てるような学問が必要だと説き、そんな国民国家が、「天理人道」「万国公法」のもとに平等の関係を保っている国際社会の構想も披露している。こうして生まれたのが「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という平等思想の根底をなす言葉だった。潔く幕臣の座を捨て、役人になることも拒んだ彼は、同じ潔さで、政府から褒章の話が出たときも断った。「学者を褒めるなら豆腐屋も褒めろ」というのが、そのときのセリフだったという。脳出血で瀕死の床の彼に授じゅ爵しゃくの知らせが届いたときは、家族が諭吉の意を汲んで断っており、位階勲等を無視し続けた。
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【この辞典の書籍版説明】
「雑学大全2」東京雑学研究会 |
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浜の真砂は尽きるとも,世に雑学の種は尽きまじ。新たな1000項目で帰ってきた,知的好奇心をそそる雑学の集大成第2弾。 |
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