五稜郭
【ごりょうかく】
【雑学大全2】 地理 > 場所
鳥羽・伏見の戦いにはじまり、東へ北へ戦火を広げていった戊辰戦争。この戦争で、あくまで江戸幕府に忠誠を誓って新政府軍(官軍)に抵抗した、旧幕府軍(賊軍)の最期の地となったのが、箱館(函館)五稜郭である。激しい砲撃を裏付けるかのように、現存するのは当時の兵糧庫だけだが、その名の由来となった星形の土塁は健在だ。旧幕府軍の聖地のようにいわれるこの五稜郭も、誕生のきっかけは国防を目的とした幕府の事業としてであった。一八五四(嘉永七)年の日米和親条約締結により、日本は下田、横浜などが開港していくが、当時の箱館もその一つだった。ただ開港にあたっては、北辺の攻撃に対して無防備であってはならないということで、城塞が築かれることになった。それが亀田役所土塁、後の五稜郭だった。設計を担当したのは武田斐三郎である。海へ向けて砲台を据えつける簡単な台場を予定していた幕府に、まったく新しい城塞の建設を提案したのが彼である。彼は大坂の適塾で蘭学を学び通訳になると、後に天文、地理、測量、外国機械の製造法などを実地で身につける機会を得た。その知識を買われて箱館の城塞設計を任されたとき、彼がめざしたのはヨーロッパに見られた星形の城郭だった。五カ所に突出した砦があれば、攻めてくる外敵を縦横無尽に攻撃することが可能になる。そのためには、高い天守閣のような建造物は不要で、濠を備えた堅固な土塁があればよかった。それが五稜郭の原形である。槍や刀での戦いから銃撃戦に変わっていた時代にふさわしい設計で、一八五七(安政四)年に着工され、八年の歳月をかけて完成した。ただ、武田はこの五カ所の砦を囲むようにさらに出城を築く予定だったが、弱体化した幕府財政では、それを築く余裕はなかった。箱館戦争で五稜郭にこもった旧幕府軍も、この出城があれば、たとえ降伏するにしても被害は少なくてすんだのかもしれない。ちなみに武田斐三郎は、日本で初めてストーブを考案した人でもある。
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【この辞典の書籍版説明】
「雑学大全2」東京雑学研究会 |
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浜の真砂は尽きるとも,世に雑学の種は尽きまじ。新たな1000項目で帰ってきた,知的好奇心をそそる雑学の集大成第2弾。 |
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