空海
【くうかい】
【雑学大全2】 ヒトの不思議 > 人物
天台宗の開祖である最澄と真言密教を成立させた空海。彼らは八〇四(延暦二三)年、第一六次の遣唐使が桓武天皇によって派遣されたとき、一緒に同行。帰国してからも一時は親密な親交を持っていたが、間もなく彼らは仲違いをすることになる。最澄の入唐の目的は、天台山で天台法華宗の開立の資格を授かることだったので、在唐八カ月で帰国した。一方、空海の留学は足掛け三年におよんだ。その間、長安に入って多方面の人物と交流を深め、詩文、書画なども磨きをかけた。八〇六(大同元)年、空海は帰国し、九州や槇尾山(和泉国)で修行を経た後、八一〇(弘仁元)年、京都の高尾山を真言密教の道場とすることを許された。空海が帰国した八〇六年には、最澄も天台宗の開創を許可されている。そしてこの頃、二人は南都六宗の旧仏教勢力に対し、共同で立ち向かおうとしていたのである。八一二(弘仁三)年、空海が高尾山寺で二度灌頂(継承の儀式)をおこなった際、二度とも最澄は参加した。最澄はこのとき四七歳。七歳年下の空海の教えを乞うたことになる。しかし、二度の灌頂で空海が最澄に与えたのは入門的なものでしかなかったため、最澄はより高いレベルの伝法灌頂を求めたが、空海は「時期尚早」としてこれを拒否。その後も空海は、最澄が比叡山に帰るときに、弟子の泰範を残したにもかかわらず、経典の借覧を頼まれても断ってしまった。さらに泰範の比叡山復帰も許可しなかった。最澄は強い不満のうちに、七年にわたった空海との親交を断ち、同年、天台法華宗の布教のために東国へ旅立った。なぜこれほどまでに二人の高僧の間に溝ができてしまったのか?それは最澄が「筆受こそ学ぶための最高の手段」と考えていたのに対し、空海は「師のもとで修行し、心身を投入する面談こそが最高の修行方法」とした。この根本的価値観の違いが大きな影響をおよぼしたともいわれる。
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【この辞典の書籍版説明】
「雑学大全2」東京雑学研究会 |
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浜の真砂は尽きるとも,世に雑学の種は尽きまじ。新たな1000項目で帰ってきた,知的好奇心をそそる雑学の集大成第2弾。 |
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