大塩平八郎
【おおしおへいはちろう】
【雑学大全2】 ヒトの不思議 > 人物
大坂の町奉行所で与力を務めていた大塩平八郎は、三八歳のとき職を養子に譲って隠居の身となっている。もともと病弱だったからでもあるが、陽明学者として門下生を集めていた家塾「洗心洞」での指導に力を注ぐためだった。腐敗した役人が多いなかで、清廉な人柄をそのまま写したかのような与力時代の仕事ぶりで、当時の主流ではない陽明学の師ではあったが弟子の数は少なくなかった。天保の飢饉が起こったとき、餓死者が出る、盗賊がはびこるといった状況下で奉行所は何の策も講じられなかった。そこで大塩は豪商たちからの寄金で難民救済をするという策を建白した。しかしこれが受け入れられなかったばかりか、ヤミ米の値を上げて稼ぐ悪徳商人を放置して、奉行所はヤミ米を求める町民捕縛に力を注いでいた。一八三七(天保八)年、怒りに燃えた大塩は、門弟と謀はかって奉行と悪徳商人を襲う計画を立てた。俗にいう「大塩平八郎の乱」である。自宅に火を放っての挙兵だったが、わずか半日で鎮圧され、逃亡した大塩も捕縛を嫌って自爆してはてた。ところが、この大塩が実は死んではおらず、他国へ落ち延びて生存しているという風聞が事件直後から流れたとされている。どこへ落ち延びたかは諸説あり、九州に逃げてから船で大陸に渡った、あるいはシベリアへ行った、直後に浦賀に来日したモリソン号の船上にいた、単純に江戸に潜伏しているというものもあった。それだけ大塩の人気が高く、生きていてほしいという願望が生んだ風聞だったようだ。それが、明治時代になって、大塩はヨーロッパへ逃れたという説が出てきた。根拠は大塩の蜂起に参加した親戚の生き残りの男性の墓にある碑文だ。大阪の竜淵寺にあるその墓の碑文には、彼と大塩の一行一二人は、いったん長崎から清国へ逃げ、大塩とその養子はヨーロッパへ向かったとある。さらに親戚の男性は、そこで別れて長崎に戻ったと記されている。おそらく当時の風聞の集大成ともいえる内容だが、これだけ根強く伝えられたのは、大塩への賞賛と人気とに加えて、爆死した彼の遺体が見分けられないほど無残だったことを偲んでいるからかもしれない。
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【この辞典の書籍版説明】
「雑学大全2」東京雑学研究会 |
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浜の真砂は尽きるとも,世に雑学の種は尽きまじ。新たな1000項目で帰ってきた,知的好奇心をそそる雑学の集大成第2弾。 |
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