妻籠宿
【つまごじゅく】
【日本史の雑学事典】 第10章 文化の巻 > 昭和時代
■19 日本で初めて「町並み保存」を実現…起死回生に成功した妻籠宿の人々
妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)は、中山道木曽路11宿の一つで「妻籠の駅は馬籠とともに鄙びたり」と言われたように、江戸時代は人口400人の小さな宿場町だった。
その妻籠に、三留野宿方面から入ってゆくと、入り口には昔ながらの高札場が立ち、路を隔てて古風な水車が回る。そこからさらに一歩足を踏み入れれば、時代は完全に平成から江戸へと移ってしまったように感じる。
宿路は下町、中町、上町と続き、さらに次宿の馬籠へと向かう。馬籠宿は、木曽路の終着点であり、島崎藤村の故郷としても有名で、古くより観光地として栄えてきた。しかし、こちらの妻籠宿のほうも、藤村とはとても縁が深い。
「まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき…」(島崎藤村『若菜集』)
で始まる『初恋』の歌のモデルで、実際に藤村が恋したというおゆふが嫁いだ場所だからである。
下町から中町へ入る頃、妻籠宿には不釣り合いに大きい、3階建ての豪邸が現れる。ここはその昔、妻籠宿の脇本陣(大名が泊まる本陣の予備施設)を務めた林家の屋敷で、おゆふの嫁ぎ先でもあるのだ。
現在、建物の奥にある土蔵は、奥谷郷土館として一般に開放され、館内には島崎藤村の絶筆や、おゆふの肖像画も展示され、往時を偲ばせてくれる。
また、皇女和宮や明治天皇も林家で休息したと言われ、関係遺品がいくつか残っている。
妻籠を歩いてみればわかるが、石畳の敷かれた路、連子格子の古風な窓、黒光りした板壁、うだつ(2階についた防火用の袖壁)の上がる旧家、民家の石置き屋根と、眼前に広がる風景のなかで、現代を連想させるようなものは何一つない。
自動販売機も看板も、テレビのアンテナも電柱も見当たらない。極めて徹底している。
実際、宿場の復原作業では、景観を損ねるものは、住民の意志で、ことごとく撤去されたのである。鉄筋建築や工場とて例外ではなく、ガラスや新建材など近代的なものは障子や板壁に戻され、破損箇所もすべて旧のごとく修復された。
だが、当時これを実行するに当たり、住民は強い不安を覚えていた。なぜなら、この妻籠が、日本初の「町並み保存」の試みだったからである。
しかし、ここで行動を起こさなければ、妻籠宿が過疎の波に揉み消されてしまうのは確実だった。
明治時代末期、幹線道路が完成し、中央本線が開通したことで、両者のルートからはずれてしまった妻籠は、宿場としての機能を完全に失ってしまった。旅人が遠のいて収入は激減し、ほかに特別な産業もないこの土地を、離脱してゆく者が続出した。
だが、宿に愛着を感じて踏み留まった人々もいた。彼らは長いあいだ苦しい生活に耐えながら、妻籠を没落から救う手段を考えてきた。
そしてたどり着いた先が、起死回生をかけた宿場の保存・復原による観光地化だった。1968年のことである。
住人たちは、近代化から取り残されたゆえに残る古い景観を逆手に取り、時間を止めることで観光資源にしてしまうという妙案を用いたのだ。
結果、雑誌やガイドブックで数多く取り上げられ、いまでは、妻籠といえばその名を知らぬ者がいないほどの人気観光スポットになった。かくして妻籠の住民は、勝ち残ることができたのである。
人の知恵とは、誠にすばらしいものだと、この路を歩いてつくづく思う。
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【この辞典の書籍版説明】
「日本史の雑学事典」河合敦 |
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歴史は無限の逸話の宝箱。史実の流れに紛れて見逃しそうな話の中には、オドロキのエピソードがいっぱいある。愛あり、欲あり、謎あり、恐怖あり、理由(わけ)もあり…。学校の先生では教えてくれない日本史の奥深い楽しさ、おもしろさが思う存分楽しめる本。 |
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